ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【難波の堀江】歴代大王の四宮(基礎知識)と仏教伝来期【古代上町半島・考】

史跡や伝承は負けないぐらい多いのですが、近畿では、奈良や京都に比べて、大阪・難波の古代史は影が薄いですね。

幾たびも戦闘(戦争・空襲)で荒廃し、秀吉公の時代以降、一環して商(あきない)と都市開発を優先してきた歴史ですから

例えば、難波史の古い年表に出てくる大王の住まいの『宮』や『行宮、かりみや』は、残されていませんし、あまり知られていません。

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史跡難波宮跡発掘調査(NW00-11次)現地説明会資料(平成12年11月)

記紀で伝えられる歴代大王の宮は4つ。

神大王(第15代)の大隅宮(おおすみのみや)
仁徳大王(第16代)の高津宮(たかつのみや、こうづのみや)
( 欽明大王(第29代)の祝津宮(はふりつみや))
孝徳大王(第36代)の難波宮(なにわのみや)(前期難波宮=難波長柄豊碕宮、なにわながらのとよさきのみや)

かろうじて、難波宮が、山根徳太郎先生の尽力で発見されただけです。

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他は、それぞれの場所は推定されていますが、本当にどこにあったのか、今のところ、確実な証拠はありません。

(祝津宮は兵庫県尼崎市に伝承地があるため、公式的には大阪の年表には含まれません。)

先日来、紹介している日羅公の荒墓(あらはか)、産湯稲荷神社大阪市天王寺区小橋町)、東高津宮(天王寺区東高津町)などは、各宮がどこにあったのかを探す流れで、今できることとしてひとつひとつ記事にしている次第です。

(それぞれの記事は「古代上町半島・考」カテゴリーをクリック、または、知りたい内容を検索窓に文字入力で検索してください。)

古代史の舞台は幅約2キロ、長さ10数キロの古代上町半島

。。。この中のどこかに忘れられた史跡があるはずです

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難波の堀江 仏教公伝(552年) 本田善光

欽明大王十三年(552年)、百済聖明王から金銅仏が献上されました。

(当時の日本は三韓百済新羅高句麗)の勢力争いの中、任那(みまな)を通してバランス外交を展開しており、奪われた領地を日本が援助して取り戻した御礼の意味があったと伝承されています。)

欽明大王(第29代)は、百済の使者から仏教の解説を聞き、興味を持ち、群臣たちに『祀るべきか』どうかを聞いたところ、蘇我稲目が賛成、物部尾興と中臣鎌子が反対。大王は稲目に仏像を持ち帰り、自宅で試しに拝ませてみたところ、病気がはやり多くの人民が失われました。尾興と鎌子はこれは仏像を祀った祟りとして、仏像を 難波の堀江 に投げ捨て、稲目の家に火をつけました。

時代は下って推古女帝(第33代)の時代。信濃の国の本田善光(ほんだぜんこう)が都に来たある日のこと、難波の堀江 あたりを通った時、名前を呼ぶ声が聞こえた方を見ると、水の中にピカピカと仏像が光り輝いていました。善光は拾い上げて、清めてから背に背負い、信濃に持ち帰り、一心に礼拝供養しました。これが信州善光寺の起源であると伝えられています。

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※仏教の公伝は、資料年表では538年。私は552年説を採っています

※また私は『蘇我氏はいなかった説』なのですが、一応、一般的に知られている話として紹介しています

難波の堀江はどこでしょうか?

先に紹介しておきますと、飛鳥・豊浦寺(推古女帝の豊浦宮跡、現・向原寺)境内の難波池から、江戸期に、百済仏師作の金銅観音仏像が発見され、現在、本堂で保管されていることから、難波の堀江は明日香の豊浦という説があります。

ただ、飛鳥豊浦説では、信濃に持って行ったはずの仏像が、飛鳥に捨てられたままということになり、善光説話は完全な創作ということになります。

私は、難波の堀江は、大阪上町半島だと考えています。飛鳥に仏像が運び込まれた時、始めに迎賓館(三韓館?)のある上町半島に上陸したはず。

なので、単純に百済に還すために、難波に運んだのかも知れません。あるいは飛鳥から西の山を越えた陸地の端(海のそば)に運んだのかも。

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石山合戦図は布陣図で正確性の高い古地図

天正年間の真宗本願寺勢力と織田信長公の戦い、石山合戦(1570~1580年)時に作成された陣地図(上が北にしています)、

〇のところ、当時の上町半島の東側の水辺に『堀江』と書かれています

難波の堀江として書かれた時代の、合戦図の堀江のあたりは、はるかに大きな内水域だったはずで、例えば、四天王寺の台地の麓まで水辺が来ていたと思われます。

戦前まで、台風の洪水で、四天王寺さんの東門のところまで水が来たという話を、地元の長老から聞いたことがあります。

四天王寺東南の近鉄河堀口駅は『こぼれぐち』と読みます。川の水があふれてこぼれるという意味です。

したがって、堀江は『運河』ではなく『雨が降ればこぼれる=あふれやすい水辺』という意味があるように思います。

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もうひとつ書きますと、四天王寺善光寺の間には古くから交流があり、それがご縁で、難波の天王寺蕪(かぶら)が、信濃野沢菜になりました。

いずれも間接的な証拠に過ぎませんが、これらの点をつなぐと『難波の堀江』は四天王寺の東側だったと考えるようになっています。

では、なぜ、飛鳥の仏像が、わざわざ遠く離れた難波の堀江に捨てられた(持ち出された)のか?

上町半島は、当時の政治・外交情勢、特に外交の表舞台で、そのあたりにかかわる史実が、複数、隠されているように思えます。

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