先日紹介した産湯稲荷神社の西北の方角(徒歩で約5分)に東高津宮(大阪市天王寺区東高津町4−8)が鎮座しています。
もともと、現在の近鉄上本町駅のところに鎮座していたのですが、駅の拡張工事のため、昭和七年(1932年)、真北に約330メートル(三丁)の現在地に遷座したということです。
御祭神:第二十六代仁徳天皇、磐之姫命(いわのひめのみこと)
(絵は、同じく仁徳天皇を主祭神とする高津宮(大阪市中央区高津1丁目)の絵馬堂に飾られているものです)
仁徳天皇は高津宮に都を置かれ大阪発展の基を築かれました。また仁政を敷かれた事でも有名です。当宮の創建沿革等は詳(つまび)らかではありませんが往古は「仁徳天皇社」あるいは「平野社」と称したようです。明治維新後現在の社名に改め、明治五年、村社に列せられました。かつては現在の近鉄上本町駅のところに鎮座していましたが、昭和七年、駅拡張のため、現在位置に遷座しました。
手元にある幕末・維新直前の大坂弘化地図(1845)で確認してみました。
確かに『東カウズ』の字が見えます(「現・近鉄上本町駅」から伸びる矢印のところ)。
ここから「正北に三丁」の現在地に鎮座したと、境内の石碑(記念碑)に書かれていました。
地図には、東高津宮から西に約1キロにある、高津宮(大阪市中央区高津1丁目)の位置も示しておきました。
『民のかまど』で仁徳天皇が国見していた方向は・・・
(民のかまどの話。2019年7月4日記事より)高津宮(こうづのみや)の高台に立ち、国見するのが日課の天皇は、しばらくの間、家々のかまどの煙が立たないのを見て、民が貧しい生活を強いられていることを悟り、三年間、ノータックス(税金なし)に。お陰で自分が住まいする宮は傷み放題、着るものもボロボロになったが、三年後、景気が回復した時、民は我先に宮を修理し、衣服をこしらえ、仁徳天皇(大王)にプレゼントしたという。
民のかまどの話が創話でないということが前提ですが、仁徳大王の時代とは西暦300年代と考えられます。
当時の地形は、古代難波の海に突き出した北に延びる上町半島(上町台地)を挟んで、西側は大阪湾(瀬戸内海)、東側は河内湖。
で、家々のかまどの煙が立つのは東か西か。
それほど難しくないですね。沿岸に人々が住んでいたのは東の方角(古代のウォーターフロント)
高津宮(高津神社)の絵馬堂の絵で、仁徳大王夫妻が眺望していたのは『東』です。正確には南から東。
実はこの国見の方角は、仁徳大王時代の難波を考察する時に、重要な情報となります。
なぜなら、幻と云われ所在が分からなくなっている高津宮の場所を考える のにひとつの情報となるからです(続く)
(現在、高津宮は大阪城南の難波宮(難波長柄豊碕宮、なにわのながらのとよさきのみや)と考えられているようですが、今のところ確実な証拠が出たわけではありません)