熊野街道の上町半島のスタート地点、八軒屋跡の碑が建つ永田屋昆布本店さんでいただいた非売品の冊子『八軒家』
ビジュアルで、かつ、詳しい内容に目を奪われます。その中の熊野古道曼荼羅(久保田昭 画)。
浪華往古図を3Dに描いた作品ですが、八軒屋=クボ津から真っ直ぐ南に四天王寺さん。これは実に正確な視点でした。
この絵から、難波の小郡 のことをあらためて考えてみました。
難波の小郡・再考★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
日羅公の埋葬地として伝わる『難波小郡西畔丘前、なにわのおごおりのにしのほとりのおかさき』はどこなのか。
私は『難波小郡西畔丘前』は、四天王寺近くの茶臼山古墳とにらんでいます。
それで、茶臼山古墳を基準に、小郡と大郡を分けるラインは、上町台地を東西に走る空堀(からほり)あたりと書きましたが、考え直しました。
難波宮は大郡、四天王寺は小郡でよいのですが、古代上町半島の『龍の背』を歩く熊野街道のことを考え、地図を眺めているうちに、古代の行政区分は東西のラインではなく南北だと考えるようになりました。
そのラインは現在の上町筋。ほぼ上町台地の一番高いところを南北に走る筋です。
上町筋は北は大阪城の西、南は五条宮のところで幹線道路としては終わります。
おそらく、古代上町半島を西と東に分ける大きな路だったでしょう。
難波宮は現在の大きな公園の幅のまま、ちょうど上町筋分プラスアルファの長さで、天王寺駅あたりまで区画が設けられた巨大都市で、そこには官人を中心に多くの人々が住んでいたと考えられます。「郡」は住居数で決まっていたようなので、沢山の戸数がある=大郡ということになるでしょうか。
一方、四天王寺は海外からの客を迎える・・・海上(難波の海)から五重塔などの伽藍を見せつけるという役割がありました。
四天王寺以前、古代上町半島の西側には三韓館(中央区餌差町あたり)もあり、半島の大阪湾側は「長崎の出島」のような、国際港湾エリアのイメージだったのではないでしょうか。もちろん、大郡に比べて住む人は少なく=小郡。
日羅公は、肥後(熊本)の生まれで百済のNo2に出世した人で、後の日本の国家運営に有益なアドバイスをした人でもあるのですが、日本に戻って官人になるように求められたのに対し、最終的に百済寄りの(百済が日本を攻めるだろう)発言をし、これはマズいと考えた部下にその場で暗殺されたと伝えられています。その経緯を考えれば、結局「国のナカ、大郡」ではなく「難波の小郡の西の岬の最果て」「忠誠を誓ったクニと故郷に一番近いところ」に葬られた(ただし敬意を表して前方後円墳)と考えると、ストーリーとして繋がります。
前方後円墳は御生れ(御荒れ、みあれ)墓、つまり、生まれ変わりと不老不死を願う墳墓様式と考えられます(開物妄想)ので、「生まれ変わったら次は日本に貢献してくれよ」的な願いが込められていたのではないでしょうか。ちなみに荒墓=荒陵、四天王寺の山号は『荒陵山、あらはかやま、こうりょうざん』です。
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日羅公の考察はいったん終わりますが、その事績を追いかける中で、意外に難波と飛鳥京との関係が深いことをあらためて認識しました。
謎の多い、記紀では史実が相当に隠された古墳~飛鳥時代 を考えるのに、難波の中心・古代上町半島とのかかわりを正確に理解する必要を感じています。
そのために、難波の小郡の(ある程度の)特定が必要でした。四天王寺さんも含めてあらためて考えたことを紹介してゆきたいと思います。
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奈良・東大寺の領地(8世紀)の史料から、小郡などを推定した学説もあります(新羅江荘と難波荘の位置)
私には現在の東成区や西成区の位置、中・近世の地図地名から考えて、東生郡と西成郡の位置が高過ぎる(北に寄り過ぎている)ように思えます。