大阪市の(超)高級住宅街、帝塚山(てづかやま)の閑静な住宅地の中に #帝塚山古墳。市内4ケ所の古墳史跡のうち #前方後円墳 の原型をとどめているのはここだけ。隣接していた #大帝塚山 は消失し現在は #小帝塚山 だけが残されています #大伴金村 #鷲住王 #浦島太郎
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大阪の高級住宅街の中に残された前方後円墳
(34.62160952217957, 135.49675334200487/大阪市住吉区帝塚山西2丁目8−5/難波から南海高野線・帝塚山駅から西に徒歩数分。天王寺から阪堺電車(チンチン電車)上町線・帝塚山三丁目から西に約10分。駐車スペースはありません)
先日紹介した阿部王子神社から南に約2キロ。
大阪市の(超)高級住宅街、帝塚山(てづかやま)の閑静な住宅地の中に 帝塚山古墳。
埴輪片などの出土物から、古墳時代中期(4世紀末~5世紀初頭)の築造と推定される全長120メートル、高さ8-10メートルの前方後円墳。
帝塚山の地名の由来となった古墳です。
大阪市内には4つの前方後円墳(帝塚山、御勝山(生野区)、茶臼山(天王寺区)、聖天山(阿倍野区))が残されていますが、原形をとどめているのはこの帝塚山古墳だけ。
史跡 帝塚山古墳
住吉村常磐会*1が所有している帝塚山古墳は、昭和38年国の史跡に指定され、大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原型をとどめ、4世紀末から5世紀始めの築営と推定される貴重な古墳です。当初の規模は全長120メートル、後円部の直径57メートル、高さ10メートル、前方部の幅50メートル、高さ8メートルであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されています。被葬者は不明ですが、住吉に住居があった 大伴金村(おおとものかねむら) の墳墓とする説があり、他にも 鷲住王*2(摂津名所図会)、地元では 浦島太郎の墓とする伝承(開物注、万葉集9-1740/水江の浦島の子) もあったようです。明治31年(1898年)11月に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監あらされたことを記念する天皇駐こん碑(大正3年住吉村の建立)が墳丘上に建っています。当所には市内では珍しい「カンサイタンポポ」をはじめとする植生が見られます。
埋葬者について、伝承を含めて諸説紹介されていますが、いずれにしても 海人族の長クラスの古墳 であったのは間違いないようです。
実は、上で紹介したのは「小帝塚山古墳」。
明治期ごろまで、南側に 大帝塚山古墳 があったそうです。
住吉中学校が設立されるとともに、墳丘墳墓は削られ、現在は跡形もありません。
1928年(昭和3年)ごろの航空写真をみると、住吉中学校あたりに後円部のカタチがうっすらと写っていますね。
ざっくりと大帝塚山の後円部は小帝塚山よりも一回り大きく見えますから、後円部が70メートル前後〜以上の比較的大きな古墳だったようです。
個人的には、サイズ感から考えて、大帝塚山の埋葬者が大伴金村(大連、おおむらじ)かなと考えています。
(古墳時代中~後期の大連は天皇(大王)直近の補佐役で、大伴氏と物部氏から任命されました。大伴金村は、国体護持のため継体天皇を指名した日本古代史上、最大級、文字通りのキングメーカー)