五所川原 #立佞武多(たちねぷた)2013年作品『陰陽 梵珠北斗星』には古代史のビッグネームが続々登場(#阿部比羅夫 #坂上田村麻呂 #小野春風 #安倍晴明)征夷の鎮守府は北方交易で栄えた #津軽大里 の権益を守るため蝦夷の力を抑えるあらゆる努力を行ったようです
目次
- 陰陽 梵珠北斗星
- 飛鳥時代・阿部比羅夫(あべのひらふ)
- 平安時代・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
- 平安時代・小野春風
- 平安時代・安倍晴明
- 鎌倉時代・十三湊と安東氏
- 梵珠山(松倉神社と猿賀神社を繋ぐ正中ライン)
本文
【前回記事】
陰陽 梵珠北斗星
(40.770257654331594, 140.55197477903087)/青森県五所川原市前田野目鞠ノ沢48−2/林道に沿って駐車スペースあり
平安期、津軽の中心(正中)とされた梵珠山の松倉神社(津軽三十三観音霊場・二十五番札所)。
お札は山深い神社にお参りしなくても、人里に近い御朱印所でいただけます。
御朱印所に、梵珠山の伝承を題材にした五所川原 立佞武多(たちねぷた)・2013年作品『陰陽 梵珠北斗星』の説明書きが置かれていましたが、前回紹介した津軽の北斗七星のお話にからめて津軽古代史のビッグネームが次々に登場するたいへん面白い内容でした。
伝説の中の史実を考えるためにも貴重かと思われますので、文字起こしして紹介しておきます。
斉明天皇四年(658、飛鳥時代)阿部比羅夫(あべのひらふ)、津軽の長官・馬武(めむ)および次官・青蒜(あおひる)に冠位を授け津軽蝦夷を大和政権の官軍となす。
阿部比羅夫(あべのひらふ)は、白村江の戦い(662)にも登場する人物ですが、津軽古代史に登場する「安部氏」を考える際のポイントにもなり得る大和の武人です。
延暦年間(800年前後、平安期)、桓武帝の勅により鎮守府将軍 坂上田村麻呂、奥州を平定す。大同二年(807)田村麻呂は蝦夷調伏(えみしちょうぶく)・国家安穏を祈願。十一面観音を奉じて松倉観音寺を再興す。
当サイトでもよく紹介する坂上田村麻呂公は、渡来の東漢氏(やまとのあやうじ)の血統。
朝廷の信任厚い武官で、中世~近世においては武人の鏡として崇敬されました。
津軽・岩木山神社の御祭神の一柱・坂上苅田麻呂(征夷大将軍)は、田村麻呂公のお父上になります。
然れども、元慶二年(878)出羽国(秋田~山形県)夷俘*1ら反乱。鎮守府将軍 小野春風 来たる。春風蝦夷の習俗に精通せるにより、反乱軍は説得に応じ投降する。小野春風は尾上を拠点とし津軽の開拓を図る。七柱神社を勘請し、梵珠山に北斗星を配置し夷俘を封じる。また、津軽総社として猿賀山神宮寺*2を創建する。以降、津軽大開拓の時代となる。須恵器、鉄、塩、米の北方交易により大いに栄える。人々はこれを 津軽大里 と称し夢の国となる。
小野春風の名の通り、歌人でもある武官。「蝦夷の習俗に精通している」話は、出自を理解するためにも調べてみたいですね。
文中の「尾上」は現在の猿賀神社(青森県平川市猿賀字石林)一帯のことで、現在でも神宮寺があり近くに七柱神社も鎮座しています。
先日の記事で紹介した、津軽の大蛇のシッポ「尾林」は猿賀神社一帯のことだったかも知れません(前回記事では「尾林」は現在の青森市浪岡大字女鹿沢平野辺りという説を紹介しています。)
天慶二年(939)出羽国俘囚またも反乱し、奥地の異種も加担する。関東においては平将門が朝廷に反し「新皇」を称する。安倍晴明は密命を以て津軽に来たり。五芒星の中心たる梵珠山に清明山法乗寺を建立し北斗星を復活。
「(蝦夷防衛のため)密命によって」安倍晴明が津軽に来たという話は面白いですね。
(津軽を通って大陸に逃げたという源義経の北行伝説に通じるものがあります。)
鎌倉時代・十三湊と安東氏
また、交易の安全を図るため、権現崎に灯台を創るにより、この地を視浦*3という。以降、安倍・安東氏十三湊にて栄えたり。
中世(鎌倉時代)に、その航海能力を以て、国際港湾都市・十三湊で繁栄した安東氏、その同祖・安部氏とともに出自には謎な点が多く、そのあたりの不可思議さは、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)にも通じています。
当時の中央政局に直結するストーリー仕立ては、津軽伝承の底流にあるもの、骨格であるようにも思います。
梵珠山は津軽大里にあって、東西南北の中心たり。よって別名を正中山ともいう。正中とは神の通り道であって、癒しの波動が満ちる真保呂場(まほろば)なり。また梵珠山は大仏なり。邪気を清め、大宇宙の聖なるパワーが集中する稀有なパワースポットでもある。
梵珠山(松倉神社と猿賀神社を繋ぐ正中ライン)
『陰陽 梵珠北斗星』の話を読んでいて、ふと、思いついて描いてみました。
なるほどね…
征夷の鎮守府があった尾上(猿賀神社一帯)から梵珠山は、北斗七星のある方向、真北に位置しています。
梵珠山はまさに当時の津軽(大里、邑)の正中。そしてこのラインは正中線…神仏の通り道か…。
朝廷の命に従い蝦夷の力を抑えるため、当時の鎮守府は神・仏(顕・密)・陰陽道など、
あらゆる手を尽くしていた「史実」を垣間見ているのでしょうか。