ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【靄山(もややま)】ピラミッド説もある美しい神奈備の山頂で古代妄想【脇元 岩木山神社】

津軽 #十三湖 の北。日本海に面した山麓の南端の #靄山(もややま、標高152m)山頂に岩木山神社を勧請(お招き)した #脇元岩木山神社 が鎮座。市浦は #東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)の故郷でもあります。山頂で岩木山日本海の景色を眺めながら #安部安東氏 の起源とともに古代妄想

目次

本文

神奈備(かんなび)の靄山(もややま)

(41.088698095377374, 140.3253344791178)/青森県五所川原市磯松曇谷/国道339号線五所川原市市浦-竜飛岬)・脇元海岸前を左折1分。駐車スペースあり

靄山 脇元 岩木山神社鳥居

登山口となる西の鳥居から見上げると、左右対称の美しい三笠型の山容で、古くから神奈備(かんなび)として信仰の対象とされてきました。

靄山 脇元 岩木山神社鳥居

脇元 岩木山神社 御由緒

脇元集落の東方にある靄山は、標高152mの円錐形をした美しい山で、神霊の鎮座する神奈備山として、地域住民に崇拝されてきました。靄山の「モヤ」とは、アイヌ語起源の地名とされ、本来はアイヌ語の「モ・イワ」であり、「小さい神が住む処」という意味とされています。また津軽富士・岩木山と高くなる競争をした伝説があり、山頂には脇元岩木山神社が勧請されています。山頂からは十三湖を挟んで、南に岩木山が遠望されることから、戦前までは岩木山の遥拝所でした。岩木山と同日の旧暦八月一日には、五穀豊穣と家内安全を願って、お山参詣が行われます。地元では「山かげ」と呼んで、親しまれています。祭日には、伝統芸能の脇元小馬踊りが村内を跳ねまわって華を添えた後、産土神社である洗磯崎神社*1を出発した参詣者たちは、御幣やのぼりをたなびかせ、笛、太鼓、カネの登山囃子に合わせて、豊作を願う「サイギ、サイギ、ドッコイサイギ」と唱えながら靄山を目指します。このように、昔も今も変わることなく、山岳信仰の対象として、幅広く信仰されています。

さぁ、登りましょうか!

靄山 脇元 岩木山神社

低山ですが、山道は真っすぐなところも多く、先を見上げて歩くと心が折れるかも知れませんので(笑)足元を見つめて登ります。

休み休みで登り(下りも)15-20分といったところでしょうか。山頂に着きました。

靄山山頂

靄山山頂の脇元岩木山神社

御神体 岩木山を模した石碑 向かって左横に岩木山に似た自然石

リンク先には面白いことが書いてありますので、興味ある方はご覧ください。

www.aotabi.com

・・・モヤイワとはアイヌ語で小さい岩と訳されるそうですが、モヤと名の付く山は北海道や青森県秋田県中央から北部に集中して見られ、奈良時代までは蝦夷の勢力圏に合致することも興味深いものです。モヤイワが転じてモヤとなった説が有力ですが単に小さな山というよりは、単独の紡錘型が非常に多く古くから神聖視されているように思えます・・・靄山にもピラミッド伝説中世北津軽を支配した安東氏が人工的に土盛した などと様々な伝承も残っており不思議な山と言えます

東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)の故郷

靄山のある市浦一帯は、神代の 大和国長髄彦ナガスネヒコを祖とする 安東氏(安部氏)*2 の起源伝説を伝えますが、多くの歴史学者から偽書とされている 東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし) の故郷でもあります。

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靄山(もややま)山頂からの眺め

当日は晴天でしたが日本海からの風はやや強く、七理長浜には白波が立っていました。

靄山山頂からの眺め。左は岩木山のある南、右は北。正面は日本海

先日の記事で紹介した山頂からの岩木山の眺め。

流れて重なる雲が鉛色になり、磯に打ち上げられる波に華が咲き始めると最晩秋。

やがて津軽に長い冬が到来します。

靄山山頂からの岩木山の眺め

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さて、この度、私が靄山(もややま)を参拝した理由。

東日流外三郡誌が語るように、大和の安部・安東氏が津軽に到来したのであれば、三輪山(みわやま)がその名の起源かも!?と考えた次第。

語感だけの妄想ですが「もや」と「みわ」・・・神奈備である意味はもちろん、スガタカタチも似てるんですよねぇ。

ご覧の皆さんはどう思いますか🤩

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*1:青森県五所川原市脇元野脇27に鎮座。靄山と同じく三笠型の神奈備の不動山を遥拝

*2:先年、凶行に倒れた安部慎太郎元首相は安部・安東氏の血脈と自認されていました。平安の陰陽師安倍晴明も血脈