はじめに
一昨年の年末、住吉大社摂社 #大海神社 を参拝した時に、ご老人からいただいた #摂州住吉宮地全図。江戸末期の住吉さんの境内図。どうも東西よりも南北を意識して描かれていることに気が付きました。当時の考察とあわせてあらためて紹介
目次
本文
大海神社での不思議な出逢い
2019年の年末、住吉大社・摂社の大海神社(だいかいじんじゃ)を参拝した時に、偶然にも、私の出身大学の一期生というご老人にお逢いしました。
その言葉から推察されるご年齢は90才を超えていました。
文学部の教授をなさっていた方で「そろそろ足腰が弱ってきたので、毎月詣りは今日で最後にする」「熱心に神社のことを調べているのでこれをあげましょう」といただいたのが、江戸末期(1827年)文政年間に作成された 摂州住吉宮地全図(せっしゅうすみよしのみやちぜんず)のコピー。三枚をつなげて一枚の地図になります。
博物館等で公開されていないもので、初見の地図でした。
つなげてみて気が付いたのが、摂州住吉宮地全図が『奥の天神から、歴代神主(津守氏)の居館だった神主館まで』、南北を意識して描かれていた こと。だから横長なんですね。
あのころはちょうど、現在の住吉信仰(東西、赤線)に対する、出雲信仰(南北、黄線)のこん跡を探していた時でしたので、ほんとうに、この出逢いと、その後の発見には今でも驚いています。
もし、あの日、あの時間にお詣りしていなければ、ご老人に逢うことも、地図をいただくこともなかったでしょう。
南北の黄線を、ずーっと南にたどってゆくと、ドンピシャで、仁徳天皇陵(堺市)の中心墓域(後円部)に至ります。
その後、この妄想(考察)をもっと進めるべく歩き回ったんですが、何分、情報不足・力量不足もあり、そのままにしていた次第。
海人族の王・天武天皇
頭の整理を兼ねて、去年の暮れから当ブログとは別に、少し難しい解説が必要なアラハバキ信仰について、連載を始めていて、あらためて登場したのが大海神社。
天武天皇になる以前の「大海人皇子」の由来が、この神社(一帯に居住していた安曇系の氏族)にあると理解し始めてから。
それとともに、難波の住吉あたりは、当時の瀬戸内海、日本海、太平洋の各海人族のメインの移動ルートをつなぐ交差点であったことが見え始めます。(詳しくは最新の19章にて。よかったらご覧ください)
この機会にあらためて、よーく見てみると、大海神社は、上記の南北ラインに並んでいました
なにか、1年を置いて、ぐるりと一回りしてきた感じです。
いろいろとわかってきたこともありますので、またあらためて紹介してゆきたいと思います。
ご老人、お元気にしておられるでしょうか。