はじめに
作家として初期の #司馬遼太郎 さんに #長髄彦 という短文のエッセイがあります。故郷の竹ノ内へのにじみ出る愛と #消された河内の古代史 のヒミツ。#ナガスネヒコ #ニギハヤヒ #竹内街道
目次
本文
竹ノ内 司馬遼太郎さんの故郷
司馬遼太郎さんの初期のエッセイ「長髄彦」*1を参考にしました(昭和35年、1960年)
大阪市出身(現在の浪速区)の司馬さんは幼少の頃は虚弱で、水と空気がキレイなお母さんの実家(現在の奈良県葛城市竹内)に里親に出されていました(北葛城郡磐城村竹ノ内)
大阪と奈良は北の生駒・信貴山系から南の葛城山系を県境としていますが、竹ノ内はその葛城山系の北端、二上山や竹ノ内峠の麓に位置します(竹内街道の奈良側)
ナガスネヒコの古墳?
村には、武内宿祢(たけのうちのすくね)*2の出身地伝承の他、ナガスネヒコのものとされる古墳があるといいます。
エッセイより)村の中の私の家の裏手に小さな丘がある・・・丘というのは長髄彦の古墳なのである。そう伝承されている。学会が裏付けたわけでもなく、新聞が書いてくれたわけでもなく、わが竹ノ内の村民が、千数百年来、相語り伝えて、たれがなんといおうと、そう信じこんでいる古墳なのである。村民のひとりである私の母方の叔父などはいう。「子孫が”そや”というてるのに、これほどたしかなことがあるかいな」。もっとも、丘の上には芋を植えちらかし、すそではタケノコを栽培しているから、子孫の護持は決して良好と言えないのだが、それは歴史に対する趣味性の問題にすぎまい・・・
笑。故郷愛がにじみ出た文章ですね。(ちなみに”そや”は関西弁で”そうです”という肯定の意味)
同。【 】は開物追記)・・・要するに、ここの村民たちはイワレヒコ【神武天皇】の率いる大伴、物部のつわものどもに駆逐された【天孫降臨】中つ国【ヤマト】のまつろわぬ者どもの子孫なのだ。正確にいえば、長髄彦の妹【ミカシキヤヒメ】を貰いながら、その義兄を売った饒速日(ニギハヤヒ)の子孫なのである・・・
そうかぁ。司馬さんを含めて村の人々は「まつろわぬ者」の子孫である一方「裏切りをした者」の子孫であるというアンビバレントな(矛盾した)自己意識とともに生きているのかも知れません。
今はどうなんでしょうか。気になるところ。
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おそらくこのような伝承が元となった『ナガスネヒコ=葛城襲津彦(かずらきのそつひこ、武内宿祢の子)説』もありますが、ナガスネヒコは神武東征・神話時代の人、葛城襲津彦は倭の五王・古墳時代の人物ですから、時代がまったく合いません。
ただ古代の襲津彦一族の自己意識は、司馬さんと同じアンビバレントなものだったのかも知れません。
アラハバキ解・汎日本古代信仰の謎に迫る【連載完結】第5章)フィールドワーク(葛木倭文座天羽雷命神社)
【第5章)フィールドワーク(加守神社/葛木倭文座天羽雷命神社)】