はじめに
日本書紀が伝える #蘇我氏(崇仏派)#物部氏(排仏派)の闘争の契機となった仏教伝来は欽明13年(552年 #仏教公伝)。対して #上宮聖徳法王帝説 #元興寺縁起 は538年。わずか14年の大きな差 #密教 #ヒンドゥー教
目次
本文
泊瀬川(はせがわ)は、長谷寺(はせでら)の渓谷を抜けて西に向き、近鉄大阪線に沿い、三輪山の南で奈良盆地に流れ込むところから「大和川」になります。
「仏教伝来の地」「海柘榴市(つばいち)」は、地図の左(西)の方、磯城金刺宮の付近になります。
榮長増文氏の著書(原始三輪山)によると、一帯に大和朝廷の中心があった古墳時代後期、泊瀬川の川幅は今の数倍以上、最大で200メートルほどもあったといいます(発掘調査による)
一帯は、難波津(現在の大阪市)の大和川または淀川からの内陸水運の要衝で、海外からの迎賓機能のある内陸港と、日本最古とされる交易の海柘榴市(つばいち)がありました。
地球規模の視点で、ここが極東(Far East)、シルクロードの終着点と言うことができます。
(飛鳥時代に、迎賓機能のある港湾都市は、現在の大阪市内の四天王寺〜難波宮に移ります)
仏教伝来の碑
案内板)ここ泊瀬川畔一帯は、磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)*1、磯城嶋金刺宮(しきしまかなさしのみや)*2をはじめ最古の交易の市・海柘榴市(つばいち)跡などの史跡を残し「しきしまの大和」と呼ばれる古代大和朝廷の中心地でありました。そしてこの付近は、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する都の外港として重要な役割を果たしてきました。「(日本書紀)欽明天皇の十三年冬(552年、仏教公伝)、百済(くだら)の聖明王は西部姫氏 達卒*3 怒唎斯致契(せいほう きし たつそつ ぬりしちけい)等を遣して釈迦仏金剛像一躯、幡蓋(ばんがい)*4若干、経論若千巻を献る」と日本書紀に記された仏教伝来の百済の使節もこの港に上陸し、すぐ南方の磯城嶋金刺宮に向かったとされています。(中略)また「推古天皇十六年(609年)、遣隋使小野妹子が随使・裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し、飛鳥の京に入るとき、飾り馬七十五頭を遣して海柘榴市の路上で額田部比羅夫(ぬかたべのひらぶ)に迎えさせた」と記されているのもこの地でありました。(後略)
日本古代史の謎・仏教伝来年の二説
仏教伝来については『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』が揃って記述する538年説が、学術的には有力です。
つい見逃してしまいがちですが、538年が『真』であるならば、日本書紀が記す552年の公伝を契機とする、蘇我氏(崇仏派)と物部氏(排仏派)の闘争ストーリーがハナから崩れてしまいます。
そしてそれによって、私たちが教科書で学んだ歴史の流れに、数々の矛盾が生じてきます。
日本の古代史を理解しようとする時、日本書紀一辺倒では『見えない史実もある』ということを示す一例です。
(下記リンクより抜粋。・・・『日本書紀』の記事に中国で長安三年(七〇三)に漢訳された『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の文章が用いられていることなどから、その信憑性が疑われています。内容についても、蘇我氏を中心とする崇仏派と物部氏中心の排仏派との闘争を強調するなど、物語としての潤色の跡を窺わせるところがあります。)
伝来した仏教の性質
この記事は、本来こちらのテーマで書こうとしたのですが、日本書紀の信ぴょう性の話になっていまいました😅
538年・552年、いずれにしても、伝来した仏教は、紀元前500年ごろに成立した釈迦仏教から大きく変質した、ヒンドゥー教と習合した仏教、つまり密教でした。
本来、釈迦は(仏像などの)偶像崇拝を否定していましたし、その教えは初転法輪【戒律であり哲学的思想を法輪にたとえて説く】で、一般の私たちがイメージする仏さまへの信仰とはずいぶん違います(私たちがイメージする仏教は鎌倉~室町時代に各宗派として成立したもの)
また、仏教伝来を契機に修験道*5が興隆しますが、起源はヒンドゥー教のリシ。厳しい修行(ヨーガ)を通じて、天界と人界の間に生きるようになり、時に神をも上回る超能力を持つようになったとされる聖仙をリシといいます。
先日紹介した、古代インドの天地創世の乳海攪拌神話で登場した「短気な賢者・ドゥルバーサス」がリシです。
日本では修験道を、道教の神仙思想と結びつける観点が多いですが、中国(天台山)の神仙も、元をたどればヒンドゥー教のリシに至ります。(天台宗開祖・最澄(伝教大師)の持ち込んだ天台密は、中国天台山に伝わった密教)
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インドで仏教が存在したのは紀元前500年ごろから西暦1200年ごろの約1700年間だけとしても過言ではありません。(現在インドの仏教徒は人口の1%に満たないからです)そのうち最後の700年間はヒンドゥー教と習合した 密教 として発展したので、日本に渡来した仏教は、最初からヒンドゥー教色の濃いものだったことになります。
例えば、聖徳太子が創建した大阪四天王寺の四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)は、インドの霊山とされる須弥山(しゅみせん*6)の東西南北を守護するヒンドゥー教の神々(ローカパーラ、方位神)です。