はじめに
仏教伝来に538年と552年の二説(公伝)。ただ渡来人が私的に持ち込んだ仏教(私伝)は、それよりも早いと考えられています。初めて日本に姿をあらわれた仏さま。それは銅鏡に描かれたものだった可能性 #仏獣鏡 #鞍作氏 #平林古墳
目次
本文
最初の渡来人と飛鳥
日本書紀・雄略二年(457年、古墳時代中期)にあらわれる檜隈民使博徳(ひのくまの たみのつかい はかとこ)と身狭村主青(むさのすぐり あお)が、記録に残る最初の渡来人とされます。
二人の子孫らは、飛鳥西南の檜前(ひのくま)一帯に住み、東漢氏(やまとのあやうじ)となり、後に坂上田村麻呂公らが出ます。
この後、飛鳥時代の推古天皇期に、仏師集団の鞍作氏(くらつくりうじ)、平田氏、軽氏(かるうじ)、大窪氏などの渡来人が半島経由で中国からやってきて、それぞれ飛鳥を拠点として活動します。
鞍作氏は、司馬達等(しばだちと)とも云われる 主(すぐり、別名:首おびと)、多須奈(たすな)*1、止利(とり)の三世代 が知られています。
鞍作(鞍部)の名では、
● 雄略天皇7年(463年)の鞍部堅貴(くらつくりのけんき)の渡来(日本書紀)、
● 継体天皇16年(522年)の司馬達等*2の渡来。明日香村阪田に(仏教の)草堂を結んだ(扶桑略記)(明日香村阪田に阪田金剛寺跡)
などが書かれており、仏教渡来(538年説、552年説)よりも前に、渡来人の私的な信仰として入ってきていたことは定説です。
日本最初の仏教寺院・飛鳥寺(明日香村飛鳥)の飛鳥大仏は、鞍作止利(鳥、くらつくりのとり)の制作とされています。
日本に初めて現れた仏さま
日本では、古墳からたくさんの種類の銅鏡が出土していますが、仏獣鏡 をご存じでしょうか。(三角縁神獣鏡などはよく知られていますが。)
日本では六例*3が報告されるのみですが、そのうちの一枚が葛城市歴史博物館に展示されている、平林古墳(葛城市兵家)出土の画文帯四仏四獣鏡(がもんたいしぶつしじゅうきょう) です。
中央の紐(ちゅう)という突起の周りに四つの乳(にゅう)と取り巻く四頭の神獣、その間に 仏像 が配されたデザイン。仏像は光背(こうはい)をもちます(神像には光背はない)
この銅鏡は6世紀後半(西暦500年代後半)、葛城で最後とされる終末期の前方後円墳・平林古墳(被葬者不明)から出土したもので、日本書紀などの仏教伝来年と矛盾するものではありませんが、
銅鏡自体は舶載鏡(輸入品)で、展示コーナーでは説明されていませんが、日本で出土した他の五例を参考に考えると、早ければ西暦三百年代、遅くとも四百年代に、中国で制作されたと推理されます。
ひとつの可能性として、鞍作堅貴の名が現れた雄略期(第21代、463年)から、司馬達等が飛鳥の坂田に草堂を結んだ継体期(第26代、522年)の間に渡来したものであれば、仏さまの姿も、仏教伝来(538年説、552年説)よりも早く日本に伝わっていたことになります。
葛城と雄略天皇
平林古墳は、鞍作氏とかかわりのある人物のものであるかも知れません。
鞍作氏は仏師として知られていますが、その名の通り、馬具作りの職人集団でもありました。