はじめに
聖徳太子のほか、名だたる武将が信奉した #毘沙門天 はインド生まれ。奈良 #朝護孫子寺 の御本尊。上杉謙信公の『毘』の旗印でも知られています。奥さまは ヒンドゥー教の #ラクシュミー 日本では #吉祥天。#聖徳太子 #丁未の乱
目次
本文
少年皇子は、戦況が不利になった時、白膠木(ぬるで)の木で作った四天王像を頭に挿し『この戦いに勝利した暁には、四天王を祀る寺を建立し、生涯をかけて衆生救済に務める』ことを誓います。祈りの直後、皇子の軍は劣勢を盛り返し、物部守屋(もののべのもりや)を討ちとりました。
こうして物部宗家は滅び、三百年以上続いた古墳時代が終わり、飛鳥時代が始まります。
子どもの頃から聞いてきた地元、大阪四天王寺さんの創建譚。皇子とは聖徳太子、戦いとは丁未の乱(587年)。
聖徳太子が祈った四天王(東の持国天・南の増長天・西の広目天・北の多聞天)は、ヒンドゥー教(後に仏教も)の霊山・須弥山(しゅみせん)の方位を守る神々(ローカパーラ)。
中でも太子は、独立尊として 毘沙門天(びしゃもんてん)といわれる多聞天(たもんてん)を篤く信仰しました。
毘沙門天は、ヒンドゥー教の クベーラ(ヴァイシュラヴァナ)*1 と同一視されており、クベーラは 乳海攪拌神話(逸話)で、かつての大洪水時代*2に海底(地下)に失われた財宝を取り戻した天界人から、その守護を任されます。
朝護孫子寺のこん跡(黄金のムカデ)
2019年12月に紹介した、奈良県と大阪府(八尾市)の県境・信貴山(しぎさん)麓の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)。御本尊は毘沙門天王。
聖徳太子が守屋と戦う前に戦勝祈願をし、成就の後「信ずべき、貴ぶべき山」として伽藍を開いたのが始まりとされ、
太子が 毘沙門天王を感得したのが寅の年、寅の日、寅の刻 というところから、寅のお寺として有名です。
御本堂の『毘沙門天王』の扁額に 黄金のムカデ
ムカデは「たくさんのおあし(お金)」つまり「富貴」を意味します。
お寺のホームページでは 昔の山師(やまし)が使った鉱脈の隠語という説もある とも紹介されています。
ヒンドゥーの守護神クベーラが守る『地下に埋もれた財宝』を、朝護孫子寺がいう『鉱脈』と考えれば、遠く離れたインドと日本で話は一致します。
毘沙門天(=クベーラ)の正体
中央に毘沙門天、向かって右に奥さまの吉祥天(女)、左に子どもの善膩師童子(ぜんにしどうじ)の並び。
今年はちょうど今。2月28日までの御開帳
吉祥天はヒンドゥー教のラクシュミー。ヒンドゥー教では、ラクシュミーの旦那さまは・・・ヴィシュヌとされています。
毘沙門(ヴィシャモン)とヴィシュヌ。。。似ていますねぇ
Wikiなど一般的には、クベーラの別名・ヴァイシュラヴァナが、漢字の毘沙門になったという説明がされていますが。。。
ヴィシュヌ神は『アバター』の語源となったアヴァターラ(化身)が得意な神です。
本場のインドではメジャーな化身だけでも10ほどもあります(ヒンドゥー教ではブッダ(釈迦)はヴィシュヌの化身と考えられています。驚!)
インドの北方を守る守護神としてあらわれ、シルクロードに乗ってはるか東方、極東の日本にやってきたということになります。
大黒天がシヴァの化身・マハーカーラ(摩訶迦羅天)となって日本にやってきたことを考えると、あり得る話です。
名だたる武将が信仰した軍神
日本の歴史において毘沙門天は軍神として名高く、楠木正成公、上杉謙信公、武田信玄公が信仰しました。
天下泰平の江戸期には、七福神の一柱に加えられました。