はじめに
現存する最古の木造建築 #法隆寺。伽藍中心に金堂と五重塔。金堂中央に #聖徳太子 がモデルの #釈迦三尊像、東に #薬師如来坐像、西に #阿弥陀如来坐像、各コーナーに #四天王立像。平安時代に #吉祥天 #毘沙門天 が配置されました
目次
本文
法隆寺 金堂
金堂とは、御本堂のことで、堂内の内陣・須弥壇(しゅみだん)中央に釈迦三尊像(飛鳥時代、止利仏師=鞍作止利)、東に薬師如来像(飛鳥時代、鞍作止利(出雲伝承))、西に阿弥陀如来像(平安時代に造仏後盗難、鎌倉時代に再建)を配置します。(制作年代・制作経緯は各像の光背銘文により判明)
金堂にはたくさんの仏像が安置されていますが、かつては百済観音像(現在法隆寺の大宝蔵殿に安置)、玉虫厨子(同)、橘夫人厨子(同)、金銅四十八体仏(東京国立博物館)などが、ぎっしりと並べられていたそうです。
おそらく平安時代以降、日本では、日が昇る方に薬師如来、日が沈む方に阿弥陀如来を置くようになりました。
要約・私の法隆寺案内より)聖徳太子の母后である間人皇后(はしひとのこうごう)が亡くなった推古三十年(622)の正月、上宮法皇(太子)と后の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)が相次いで病床についた。そこで后や皇子をはじめ諸臣たちは、太子の転病延寿、安住世間を願って 太子等身の釈迦像 を造ろうとした。しかし后と太子は翌二月に日を接して亡くなってしまい、願いの釈迦尊像、脇侍、荘厳具(しょうごんぐ)が 止利仏師 によって完成したのは、翌推古三十一年三月のことであった
光背銘文には、中央の釈迦如来像は太子をモデルに造られたことが書かれています。
面長で杏仁形(ぎょうにんけい)の目、すこし厚めのくちびる、口角が上がり微かにほほ笑んだようなアルカイックスマイル。
様式的でない、個性的で、人間味のある柔和な表情は、止利仏師らしい作風を感じさせます。
四天王立像(飛鳥時代)
内陣の四方を守るように、北西に広目天、南東に持国天、北東に多聞天、南西に増長天。
いずれも頭から台座まで一本のクスノキに彫られた、静かにたたずむ動きの少ない『棒立ち』で、他ではほとんど見られない初期的な像容です。
広目天と多聞天の光背銘文には、製作者は薬師徳保(やくしのとくほ)と山口大口費(やまぐちのおおぐちのあたい)と書かれており、鞍作止利と同じ飛鳥時代の仏師とされています。
須弥壇の向かって左に吉祥天、右に毘沙門天の夫婦一対。(先日紹介した奈良県・朝護孫子寺の御本尊・毘沙門天の隣にも吉祥天)
この二像は平安時代(承暦二年、1078)の作で、独立尊としての毘沙門天(四天王では多聞天)と吉祥天が夫婦であるという密教の考え方に基づいて、後に、金堂に置かれたことが記録(金堂日記)に残されています。
ちなみに、毘沙門天像の光背の転法輪のデザインは、京都・東寺の兜跋毘沙門天立像(とばつびしゃもんてんりつぞう)*2も同じ様式です。