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まとめ
石舞台古墳 の近く #明日香村島庄(しましょう)に謎のトライアングル。昭和47年(1972年)の発掘調査の結果、一辺42mの池跡が確認されました。史跡にも指定されない田んぼの畦道ですが、この一帯に用明大王(聖徳太子の父上)の #池辺宮 #嶋宮 があった可能性があります
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島庄遺跡・謎のトライアングル*1
謎のトライアングルは、石舞台古墳観光の駐車場や土産物店があつまっている所にあります。
実はこのあたり一帯は、島庄遺跡 として以前に発掘され、現在は埋め戻され、観光駐車場として利用されています。
日本書記に書かれた、飛鳥川のほとりの蘇我馬子・嶋宮の発見か!と、当時(2005年)は話題になりましたが、今までのところ、決定的な証拠は見つかっていません。
丘の上の上宮寺から段々の田んぼが下って、あぜ道はおよそ南北方向の筋状に見えますが、石舞台古墳近くの土産物店横のところだけ、トライアングルになっています。
明日香村の考古学者はこういうところを見逃しませんでした。
島庄遺跡に先駆けた昭和47年(1972年)に、ここは一度発掘されています。
一帯には古代の「嶋宮(しまのみや)」、万葉集には「上の池」「勾の池」と詠われた池があったのではないかと推理されました。
調査の結果、底に人頭大の石が敷き詰められ、周囲が高さ2メートル、一辺が42メートルの方形池の跡であることが判明しています。出土した土器から7世紀(西暦600年代)の始め頃に造られ、その後、中世にかけて次第に埋もれたといいます。
一辺42メートルの方形池を地図に書き込んでみました。
嶋宮(池辺宮)跡の可能性
いつもの国土地理院地図で、水利的にここがどのような場所なのかを考えてみました。
上宮寺の丘を起点にして、連続した下り斜面の途中に石舞台古墳(方墳)、さらに低地の水が湧き出すあたりに方形池が位置しています。
古代、安全な水を確保できないところには大王の宮は建てられなかったという考察ルールに基づくと
方形池のあたりは『嶋宮』があった所として十分に考えられます。
また、一帯の地下水脈の流れを考えると、石舞台古墳(方墳)は現在、四方を石積のくぼ地に囲まれた方墳ですが、造営時はお堀のわき水に囲まれていた可能性が高いです。
島庄(しましょう)と上居(じょうご) 完璧な舞台配置★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
さて、トライアングルの一帯は、蘇我馬子の邸宅があったとされる『嶋宮』だったのでしょうか。
私は、むしろ、用明大王の『池辺大宮』だったと妄想しています。
法隆寺・薬師如来像の光背銘文に『池邊大宮治天下天皇(池の辺の大宮で天下を治めた天皇)』と書かれた用明大王。
この銘文では『大王天皇 與 太子(用明大王と太子)」という言葉が続きます。もちろん太子は、聖徳太子(上宮太子)のこと。
島庄に『池の辺の大宮』、それを見下ろす上居の丘に若き太子が住んでいた上宮、現在は『仏生山 上宮皇院 上宮寺』
(池の辺の大宮に付属していたと考えられる方形池の北側一帯は、池田といわれています)
用明大王と太子の親子の実像を考える上で、これほど舞台が整っている場所は他にないでしょう。
*1:明日香村の大字に伝わるはなし(明日香村文化協会、平成31年1月)大字島庄(しましょう、しまのしょう)を参考にしています