中之太子 野中寺(真言宗、大阪府羽曳野市野々上五丁目9番24号)
近鉄南大阪線・藤井寺駅から徒歩で約30分。駅前からバスも出ていますが、途中の仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)をじっくり見たくて歩きました。
野中寺は、藤井寺市から羽曳野市(はびきのし)に入ったところにあります。
解説板、写真とは別のパネル)当寺の創立は蘇我大臣といい、また聖徳太子建立四十六院の一とも称するところから、叡福寺(大阪府南河内郡太子町)の「上の太子」、大聖将軍寺(大阪府八尾市太子堂3-3-16)の「下の太子」に対し、中之太子と俗称 せられている。所在地の旧郷名が野中郷であって、その地名による俗名を野中寺といい『日本霊異記』には野中堂と記している。また、正倉院文書によれば、当郷は百済系渡来系氏族・船史、のちの船連の本貫であったことから、その氏寺であったことが察せられる。
その創立年代は境内出土屋瓦から飛鳥時代にあることが考えられる。境域には良く旧伽藍跡の土壇および礎石配列をとどめるが、対向する東の金堂と西の塔婆とを中心とするもので、その 伽藍配置は野中寺式 とでも称するべき特色あるものである。・・・(中略)・・・なお創建当時の 軒丸瓦には弁上に忍冬(にんどう)紋 を配した特色あるものも含まれている(以下略)
忍冬(にんどう)は日本ではスイカズラのことですが、つる草を図案化した唐草文様「パルメット」を総称した意味で使われています。日本にはシルクロードを経て、仏教とともに伝来し、飛鳥時代、奈良時代の美術に影響を与えた当時としてはモダンアートなデザインでした。
野中寺式 伽藍配置
東西に金堂と塔がならぶのは法隆寺式が代表的ですが、野中寺では塔が西、金堂が東に配置され、法隆寺とは逆になります。
古代の都市計画と地下水脈★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
野中寺の北に隣接する、野々上八幡神社境内の顕彰碑に『このあたり一帯には上印池(かみしるしいけ)があった』ことが書かれていました。
聖徳太子、そして太子を支援した建築土木集団は地下水脈(地に潜る龍)を読み、地下水が湧きだす場所、いわゆる『龍穴』を選んで、寺を建立したのでしょう(野中寺の山号は青龍山)
国土地理院の(現在)標高地図で見ると、野中寺は、南大阪屈指の高級住宅街・羽曳が丘から下ってくる段丘の途中の龍穴(上印池)のそばに建立されたことがわかりますね。
龍穴とは、地下水脈が高いところから下ってくる途中、地上に露出し、池・泉・湿地になっている所を、私は言っています。標高線では、斜面の途中の(狭い)平地や窪地が龍穴があらわれるところです。
仲哀天皇陵も同じく龍穴に造営されており考え方は同じ。
道明寺(土師神社)の由来もあわせて考えると、太子を支援した建築土木集団が、土師氏の系統であった証拠のひとつです。