ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【治田神社】春が進み緑が濃くなる杜の中、静かにたたずむ古社

はじめに

明日香村 #岡寺 仁王門に相対する #治田神社。飛鳥時代の創建当時 #龍蓋寺(岡寺)はこのあたりにあったとされています。濃さを増す緑の中に静かにたたずむ風情は、季節の花に彩られ人々で賑わう岡寺境内と対照的

目次

本文

岡寺跡に鎮座する治田神社(はるたじんじゃ)

(34.471861283239235, 135.8260631556347)/奈良県明日香村岡964/岡寺(龍蓋寺)山門の西側

治田神社(はるたじんじゃ)岡寺(龍蓋寺)の山門から

御祭神:応神天皇八幡神)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、大物主命(おおものぬしのみこと)

当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳式内社とされているので、平安時代(十世紀)には社があったことがわかる。さらに 当境内地からは凝灰岩の基壇や礎石瓦が出土することから、八世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍があったと推測されており、寺の鎮守神として、境内地に祀られていた可能性がある。この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。もともとは治田氏の祖神が奉祀されていた。文安年間(1444-1448)に一時、大国主命の和魂(にぎみたま)である大物主命を奉祀されたことが古書にある。さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。

治田神社 御由緒

史跡岡寺跡 案内板(治田神社近く)

岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正(ぎえんそうじょう)によって建立されたと伝えられる寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ治田神社境内地にあったと考えられている。境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われている。また古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。昭和57年には橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、基壇建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5mほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。その他の建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661-1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている。発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ、七間×四間の金堂と推定される。

史跡の地図に記載されている参道沿いの二つの「福石」

治田神社 参拝

治田神社 拝殿

鳥居と拝殿は南面

治田神社 神明鳥居

木塀で囲まれた拝殿の敷地内から、狛犬さんが顔を出していました。

治田神社 狛犬さん

順番が逆ですが、拝殿にお参りした後、南側の石段を少し降りて。

治田神社 南側の石段から向拝殿

ヤケにずんぐりした二宮金次郎像ですが、それがまたカワイイ感じ。

治田神社 二宮金次郎

治田神社 向拝殿の中

岡寺の境内は、春の見ごろの花々で色鮮やかで賑わっていましたが、治田神社は雨上がりの杜の緑に囲まれて、ひっそりとたたずんでいました。

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