弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)。
代表的なものは、奈良・中宮寺の『菩薩半跏像』と京都・広隆寺の『宝冠弥勒像』です。
腰掛けて左ももの上に右足をのせて(半跏)組み、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)する姿は美しく、見飽きることがありません。
金銅弥勒菩薩半跏像(重要文化財)野中寺
ふたつの国宝木像ほど有名ではありませんが、中の太子・野中寺には、金銅製の弥勒菩薩半跏思惟像(重要文化財)が伝えられています。
体調18.5センチの小型で、大正時代に野中寺の蔵で発見されたそうで、いつの時代か、どこかから持ち込まれた仏さまのようです。
小型の金銅製のせいか、お顔が大きく表情には『微笑』はみられませんが、飛鳥時代の百済様式をよく残したものです。
【毎月18日(9:30~)は金銅像を特別に拝観することができます】
そして、台座のところに、銘文(仏像の由来)が62文字(1行2字)で彫られています(文字・内容はWikiを参考にしました)
丙寅年四月大旧八日癸卯開記
■ (丙寅年、ひのえとらのとし)西暦666年の四月に記す(※大旧は、諸説あるためここでは触れない)
栢寺智識之等 詣 中宮天皇 大御身労坐之時 請願之奉 弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也
■ 『中宮天皇』が病気になられたとき『栢寺』の信徒118人が(心ひとつにして病気回復を)請願し、たてまつった弥勒様の像です
(謎の)中宮天皇と栢寺★★★
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
● 金銅像の制作時期ですが、丙寅の年は、この前が606年(飛鳥時代初期)、後が726年(奈良時代)になるため、666年で間違いない でしょう
さてそうなれば、2つの大きな謎 が残ります。
諸説があり定説はありません。ここでは答えではなく、私の考え・疑問を並べておきます
中宮天皇とはだれか
● 中宮とは基本的に女性を表す言葉です。例えば『菩薩半跏像』の中宮寺は尼寺です
● 飛鳥時代の女帝は、第33代推古(在位592-628)、第35代皇極(同642-645)、第37代斉明(皇極の重祚、同655-661)です。いくらなんでも推古女帝はないですし、斉明女帝は661年に亡くなっています
● もし生きていたとしても、斉明女帝は巫女の大王ですから、新興外来の仏教で請願されることは考えにくいです(推古女帝でも同じこと)
● やはり男性、つまり、第38代天智大王のことだったのでしょうか。しかし在位は668~671年で666年は含まれません。たしかに母・斉明女帝の没後7年間、皇太子のまま実質的に大王に就いていたというのが定説のようですが、ではそれならば、なぜ皇太子(男性)をわざわざ「中宮天皇」と表現したのか意味不明です。これも考えにくい(id:funyada さんへの回答で少し付け足しました。)
● もしかしてこの時期、仏教に帰依し『中宮天皇』と表現されるほどの高位な女性がいた・・・のでしょうか
少々、込み入った話ではありますが、さて、どうでしょうか。
古代上町半島から飛鳥時代を考えている私としては、心あたりがないことはないので、少し時間をかけて妄想してみたいと思います。
栢寺
● 栢は「はく、ひゃく、かや」と読みます。私は「百」の字が入っていますので、百済(くだら)系の寺だと考えるのが自然だと思います
● 直前の663年(夏、天智2年)、白村江(はくすきのえ)で、日本・百済は、唐・新羅連合軍に大敗、百済は滅亡し多くの百済人が日本に渡って来た時、摂津・河内に分散して居住しました。それ以前(古墳時代)から百済の職人集団(仏師など)が一定数、日本に移住しており、先住の彼らが河内・摂津方面に開いた仏教寺院が複数ありました。そのひとつが栢寺の可能性が高く、地域的・時間的に銘文の内容は合っていると思われます