酒船石遺跡で。観光ボランティアさんの地図。
左:地図の「酒船石遺跡」あたり、丘の下の亀型石槽。
右:丘の中腹にある有名な酒船石。用途は謎だが亀型石槽との関連が考えられる、
このあたりは飛鳥池遺跡や狂心渠(たぶれごころのみぞ)も含めて、水にまつわる謎の遺跡が多い。
いずれも女帝・斉明天皇(655-661、第37代)が造らせたという。
(642-645に第35代・皇極天皇の後、重祚して斉明天皇となった。舒明天皇の皇后。天智天皇と天武天皇の母。後期難波宮・考徳天皇の皇后となった間人皇女の母君でもある。Wikiより)
なぜこんなものを?
「たぶれ者」として陰口を叩かれていた(日本書紀、地図北側、狂心渠 たぶれごころのみぞ)
キトラ古墳の休憩所で流れていたビデオのキャプチャ。
物部氏消滅(丁未の乱、587)の後、奈良時代に向けての試行錯誤の百年間だったと思う。(平城京への遷都、710)
おそらくだが、推古天皇も同様、「巫女」である女帝は男性中心の仏教(大乗)をすんなり受け入れられなかったのではないだろうか。
飛鳥京の中心は仏教色が薄い気がする。川原寺、橘寺、飛鳥大寺、いずれも周囲を固める配置。拒否はしないが距離を感じる位置関係。
一方、一時ヤマト政権をしのぐパワーを持った物部氏(河内期)は好きではなかったが、彼らが創り上げた信仰(モノノベ神道)は、巫女の役割を尊重していた。
そういった思想を継承し、かつ、暇を持て余し不満を募らせる職業集団に新しい仕事を与えなければならない。(薄葬令・646~)
バラバラになりかけている国をひとつにする新しい思想・信仰とは?
物部氏は「生玉・足(葦)玉」「浮島」のクニウミで前方後円墳を国造りのシンボルとした。
私は、流れる水と男女一対で表現するもの、永遠のサイクル、子孫繁栄の姿だ。それを都に映し出そう。
女帝の国体護持に対する強い想いと切実な模索、しかし、ゆえに、思うように評価されない孤独すら感じる。
この時代、オトコたちは何をしていたのだろう?女帝ひとりに何もかも背負わせていたのではないか。
少なくとも斉明女帝の飛鳥とはそのような時代ではなかったかと思う
点在する導水遺跡は、都に水を巡らせ、映し出すため「掘」や「樋」で繋がれていたようだ。
先日いただいた明日香村文化協会の資料「繋 明日香村の大字に伝わるはなし」 に、水を流す「樋」の出土のことが書かれていた。
また、岡は亡夫・舒明天皇の岡本宮の後、斎明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)があった所。飛鳥の中心だ。隣接する上居(字)の池から「ドビ」という古代の土管で、両槻宮まで水が引かれていたそうだ。
都に岡から水を注ぐ。はじまりの聖なる水を生み出す仕組みとして酒船石と亀型石槽を男女一対で連結させていたのではないだろうか。
後に、たぶれ心と批判した人々に破壊され、男石は山中に放置され、女石は地中に埋められた。他の性的表現性のある石造物もすべて埋められた。
飛鳥の謎を解くカギは、その辺りにあるように思うが、どうだろうか。
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
なお、本記事は、開物説(蘇我氏=物部氏)をベースに書いており★★。飛鳥大寺そばにある入鹿の首塚は、地元では尼さん、他の人のものと伝えられている。数少ない蘇我氏の遺跡もそのような有り様である。やはり蘇我氏の実在は怪しい。
仏教(大乗)は厩戸王の関連で都に持ち込まれたが、百年近い政権内での軋轢(宗教闘争)を生んでいたのではなかろうか。
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