ここでは奈良時代より前の話をします。
お気づきになっている方もいるかもしれませんが、最近、当ブログでは、大王(おおきみ)という言葉を使うようになりました。
例えば、第16代仁徳天皇というのをやめて、仁徳大王という風に。
しかし、第40代天武天皇から、天皇と書いています(治世:673年-686年)
(過去記事は順次訂正中)
古代史上、天皇を正式に名乗ったのは天武天皇(大海人皇子)ということは広く知られた史実で、それに合わせようと考えたからです。
吉野の国栖人(くずびと、海人族=縄文血統)と強い絆で結ばれた大王で、大海人皇子の名もそこから来ているのでしょう。その意味で興味がそそられる御方です。
天武天皇をご存じない方は、里中満知子さんの長編歴史漫画『天上の虹』の主役(ヒロイン)第41代持統天皇の旦那さまといえばわかるでしょうか。
(奥さまの持統さんの本名は鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)。涼やかな響きですねぇ)
夫婦で壬申の乱(672年)を勝ち抜き、藤原京を通じて新しい国のカタチをあらわし、後の奈良時代の基礎を築きました。
日本史上、天皇という言葉がはじめてあらわれたのは607年(法隆寺創建年)
実は、日本史上初めて天皇という言葉が文字としてあらわれたのは、天武天皇の治世の66年前。
法隆寺の金堂に安置された薬師如来坐像(やくしにょらいざぞう)の光背銘文(こうはいめいぶん)です。
薬師如来坐像の背中の炎のような形のものを「光背」と言いますが、その裏面に掘られた銘文のことです。
作者(百済の仏師)が、その仏像を制作した経緯(由緒)を書き記したものです。
なお、このふくよかな表情の素晴らしい薬師如来像、空中に浮かんでいるような視覚効果を狙って造られています。
この仏像の由来は 法隆寺のたくさんの謎のひとつ である他、光背銘文には後世の偽作説も含め諸説あります。
本記事では、それらには触れませんが、実際、どのようなことが書かれているのかを紹介しておきましょう。
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池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次 丙午年
■ 池邊大宮で天下を治めておられた「天皇」がご病気であった。丙午の年(586年、用明期)のこと。
召於 大王天皇 與 太子 而 誓願賜 我大御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然 當時。崩賜造不堪
■ 「大王天皇」と太子は、平癒を念じて寺(法隆寺?)と薬師像を作ることを誓われたが、果たされないうちにお亡くなりになられた(=587年=丁未の乱が勃発した年)
(この大王天皇とは第31代用明大王のことで、太子は息子の聖徳太子のこと。太子が物部氏を滅ぼした丁未の乱=父王死亡年ということになります。そして父子で仏教を(厚く)崇拝していたと受け取れ、聖徳太子の仏教はお父さん譲りということになります。)
小治田大宮治天下大王天皇 及 東宮聖王。大命受賜 而 歳次 丁卯年 仕奉
■ 丁卯の年(607年、推古期)に、遺命を受けた小治田(おはりだ)大宮で天下を治められた「大王天皇」と東宮聖王が、お造りになられた
(こちらの大王天皇は第33代推古女帝でしょうか?。東宮聖王とは聖徳太子のことでしょう。日本史では摂政と言われますが、代理(副)王的な意味での「東宮」という言葉も日本史上初めてあらわれています。なお推古女帝と聖徳太子は”おば”と”おい”の関係です。)