はじめに
古代河内湖のほとり #猪飼野津 といわれた低湿地に鎮座する #御幸森天神宮。入植した渡来の移民たちはここから広大な河内の国のクニづくりを始めたのかも知れません #仁徳天皇
目次
本文
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、古代河内湖のほとり、猪飼野津(いかいのつ)といわれた低湿地帯の開拓地だったところ。
桜が満開の季節のころのお詣り。
四天王寺から北東に約2キロ。今は御幸通り-昭和世代まで疎開通りと云う人が多かった-南北路に沿って鎮座しています。(太平洋戦争の終盤、大阪も空襲が増え、奈良方面に疎開する市内の小学生が、ここを通ったことからその名で呼ばれていました。)
主祭神:仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命*1(おしさかひこのみこと)
地図に見える近くの弥栄神社の記事。
御幸森天神宮 境内
境内に掲示された地元の歴史の会(猪飼野保存会)の案内より(要約)。
「このあたりは、百済野(くだらの)といい、三韓(百済、新羅、高句麗)、特に百済の移民が多く住み、優れた文化の華を咲かせていました。この地は水鳥が群集する景勝地で、仁徳天皇は鷹狩りのためにしばしば行幸したり、この地を見聞する道すがら、たびたび当地の森に休憩したことから『御幸の森』と称するようになったと言われている。」
「(つづき)昔の東成郡猪飼野(いかいの)村の氏神。天皇崩御の後、この森に社殿を建立し、御幸宮と称した。年代は下り平安時代中頃疫病が流行し人々が苦しんだ時、社僧大蔵院行綱が病気平癒を祈願し、少彦名命を勧請した。」
(もう一柱。忍坂彦命の由緒は不明。また調べておきます。)
(古墳時代中期の)応神期以降、渡来の移民を多くを受け入れましたが、その多くが、未開の低地の開拓民であったことがうかがえます。
神馬に描かれた御紋。トビでしょうか。カッコイイですね。
住吉大社の南北ラインは、約5キロ南の仁徳天皇陵の後円部石室を指し示します。巨大な祭祀空間を創り、意図したこととは? そこからは、むしろ物部氏の唯物的な考え方が見える気がします