はじめに
少々マニアックですが #諏訪大社 の始まりについて。先日紹介した #諏訪信仰 のマザーストーン #小袋石(おふくろいし、とも)の御神域は諏訪大社上社の元宮だった?という妄想を考察(初回)
目次
本文
小袋石(磯並四社)の御神域のかつてのスガタ(上社古図)
諏訪大社上社古図(神長官守矢資料館蔵)に見える、諏訪信仰のマザーストーン、磐座の小袋石(こぶくろいし、おふくろいし)を遥拝する祭祀場一帯は、
石祠の磯並四社が山道に並ぶ(麓から、磯並社-瀬神社-穂股社-玉緒社-小袋石の順)現在の姿とは、まったく異なります。
かつては、鳥居をくぐった境内に、(今はない日月神を含めて)木造の境内五社が存在し、中でも磯並社は、小袋石を遥拝する核心的な神殿であったようです。
それは、御本殿はないけれども、御神体の小袋石を遥拝する現在の諏訪大社上社本宮のスガタであり、私はここが、上社の元宮ではなかったかと考える次第。
御神体に対して侍る勅使殿の向き
なぜなら、点線赤丸で囲った「五間廊(ごけんろう)-帝屋(みかどや)」の並びが、現在の諏訪大社上社本宮 勅使殿 とまったく同じスタイルであるからです。
特に、ミシャグジ神が降臨すると云われる 硯石(すずりいし)に対する勅使殿、つまり「五間廊-帝屋」の向きに注目してください。
(諏訪大社は自然神であるミシャグジ神を祀る神社であり御本殿はありません。)
四脚門 から硯石。
諏訪大社上社本宮に鎮座する硯石を、磯並四社のかつての御神域の磐座・小袋石と同等視してみると…。
勅使殿とは、読んで字のごとし、朝廷(天皇)のお遣いである勅使を迎える建物のことですが、勅使といえども、御神体の(あるいは御神体が降臨する)小袋石に正対したり、お尻を向けることはありません。
これは 御神体に対して侍る(はべる)位置 になります。
ついでにいうと、上社古図の磯並社は二神殿で構成されていますが、これは現在の諏訪大社上社本宮の東と西の御宝殿の形式と同じです。
御宝殿は、他の神社の御本殿に相当し、寅年と申年に交互に新造し、保管している御神輿および御神宝*1を遷座するため、あらかじめ二殿あります。
小袋石の御神域は天皇勅使を迎えるかつての重要社(元宮)だった
つまり、小袋石の鎮座する境内地は、本来、天皇勅使を迎える重要社であったということを物語っています。
勅使が一度の訪問であちこちを参拝するはずがなく、その点から、小袋石の御神域は、現在の諏訪大社上社本宮が創建される以前の元宮であったと考える理由です。
先に紹介した四脚門は、慶長19年(1614年)徳川家康の寄進と伝えられます。
上社の磐座信仰の軸線上に建てられており、すなわち、家康公(江戸幕府)はそれだけ硯石の重要性を認識していたと考えて間違いないでしょう。
(何度も申し訳ないですが)八ヶ岳原人さんのブログ(勅使殿(帝屋・御門戸屋)より、現在の上社本宮の「帝屋(御門屋)-五間廊」の古図。
小袋石の「帝屋-五間廊」とそっくり…というか、ほとんど同じですね。
*1:御鏡、御弓、御薙鎌、御太刀、御鉾