大阪万博当時、大人たちの間で難しい議論が交わされていたようです。
曰く『日本万博は伝統表現を通して日本文化を発信するのか、世界の潮流、商業主義に乗っとって未来技術を発信するのか。』
世界の万国博覧会に付きまとう永遠のテーマのようですね。
もちろん当時子どもの私の興味は、古河パビリオンの七重塔や、お寺・神社のような松下館(現在のパナソニックグループのパビリオン)にはありませんでしたが。
松下幸之助さんが投じた一石
当初、現場は他の多くの企業パビリオンと同じく、自社の最新~未来機器の展示を中心に考えていたそうですが、大阪万博3年前の昭和42年7月、創業者・松下幸之助さんが「万国博は宣伝の場ではなく、企業あるいは企業グループとしてではなく業界単位として出展すべきであり、松下グループの出展準備については再検討したい」と語り、松下グループのコンセプト変更はもちろん、他の企業パビリオンの性格(あり方)にも一石を投じた、といいます。
結果、7世紀前半、聖徳太子の母親、穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとこうごう)の発願で創建された「斑鳩尼寺(当時)」、現在は国宝の「菩薩半跏思惟像」で知られる中宮寺の本堂をモデルに、竹林と水辺に囲まれた天平デザインのパビリオンが建てられました。(斑鳩尼寺は聖徳太子が創建した七ケ寺のうちの「中宮尼寺」に比定されています)
開物妄想分類では、池の中、縄手のように細いウキハシ(参道)をわたって本殿のある神シマ(島)にお詣りする『クニビキ・ウキシマ(神社)様式』であります。(つまり出雲神話の影響の色濃い様式)
来場者の最高評価を得た松下館
結果的に、幸之助さんの思いは、万博会場に足を運んだ来場者の高い評価を得ました。
『観客がとらえた日本万国博覧会-実態調査報告書-』という資料では、『国内パビリオン52館中、一位が松下館、二位が古河パビリオン、三位が日本館、四位が三菱未来館』という結果が報告されています。結局、大人・外国人を含む来場者全体では、日本の伝統文化表現の建物の方が、未来表現型の展示館よりもより深く印象に残ったということになります。
確かに、自分ぐらいの年になると、それ、よくわかります。笑