EXPO70、大阪万博の広大な会場には、斬新なデザインの各国政府館や企業パビリオンが所せましと立ちならび、半年間、つかの間の未来都市が地上にあらわれました。
未来的で奇抜な姿形の建物群に目を奪われる中、奈良時代に存在した『七重の塔』を忠実に再現した古河パビリオンは、むしろ地味な存在だったという、今思うとゼータクな話。
日ごろ、四天王寺さんの五重の塔を見慣れた子どもの私には、見学の優先度が低いパビリオンのひとつでしたが、パンフレットが残っていたのは幸いでした。その中から。
(戦後解体された古河財閥の流れの企業グループで、古河三水会という、今のホールディング(持ち株会社)未満の親睦組織が出展しました)
古代の夢、東大寺七重の塔(文字起こし)
古代の夢と現代の夢というテーマを七重塔とコンピュートピアで表現します
(グループの中核企業のひとつが富士通(FACOM)ですね。当時使われ始めたコンピューターという言葉とユートピアを合体させた造語。万博後、世界的にマーケットが拡大した大型汎用コンピューター業界の巨人のひとつになります。近年ではスーパーコンピューターのメーカーとして知られます。ちなみにパビリオンのコンパニオンのコスチュームは鳳凰の羽根の刺繍入り。これは高かったでしょうね。)
今からおよそ1,200年前、奈良の都に世界一の金銅製の大仏とこれを納める大仏殿、その前東西に高さ86メートルもある七重の塔2基が建てられました。この建造には世界的に最新・最高の技術とぼう大な費用、労力が必要でしたが、全国民の協力によって、十数年の歳月をかけてついに完成したのです。この難事業を達成しえたのは、当時の人々がその建造に、平和と繁栄の新しい世界への夢を託していたからこそと考えられます。
はるかに高く、美しく天にそびえる七重の塔は、まさに当時の人々の夢を象徴していたと云えるでしょう。しかしその後の七重の塔はともに雷火や兵火で焼け、再建が計画されながらついに完成をみず、そのため幻の塔とも呼ばれているわけです。ここにはその東大寺七重の塔が当時の姿のままに再現されています。
少し補足しますと、第45代聖武天皇の時代(701~756、在位724~749)、反乱・災害・疫病(天然痘)がたびたびおこり、都も平城京→恭仁京→難波京(後期)→紫香楽(しがらき)京→平城京と目まぐるしく変わります。
激動の中、天皇は仏教に傾倒し、各地に国分寺を建立するとともに、東大寺には大仏と大仏殿、それに東塔・西塔の七重の塔を建立しました。
七重の塔について言えば、平安時代、鎌倉時代、室町時代を通じて、東大寺の他に京都(平安京、相国寺や北山大塔)、大阪八尾(弓削、由義寺)に建てられましたが、いずれも現存していません。
そういう意味では、万博会場の古河パビリオンは、約一千年ぶりに建てられた七重の塔という、歴史的な意義があったんですね。
万博終了後、他の建物とともに解体されましたが、法輪は、今でも東大寺境内に残されています。
本当は平城京から東大寺を巡って写真を撮り、記事を書こうと計画していたのですが、ここのところの自粛のため、写真はACから引用させてもらいました。
当時の会場地図。古河パビリオンは、アメリカ館とソ連館の真ん中あたりです。