前回からの続きです。
奈良県指定史跡 笛吹神社古墳
笛吹神社(葛木坐火雷神社)の本殿の裏(西側)に、笛吹神社古墳があります。
まるで古墳が御神体のような、神社(祭祀)と古墳(墓)が隣り合っている形式は、たいへん数少ない例ではないかと思います。
説明板(記事末に文字起こし)には、
6世紀(西暦500年代)築造の円墳
玄室(古墳中央の安置室)に置かれていた石棺は家形
蓋(ふた)の長辺にそれぞれ2か所の突起
蓋の長さ約2.1メートル、幅約1.25メートル、高さ0.6メートル
葛城地域屈指の後期古墳、と紹介されています。
以下。古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
笛吹神社古墳におさめられている石棺は、おおよそ次のようなものとイメージしました。
この大きな石棺、実は仁徳天皇陵(大仙古墳)の石室に安置されている石棺の推定復元模型(堺市博物館)
明治期に石室に入った考古学者が作成した図面から復元されたもので、石棺の蓋(ふた)には突起があり、長辺の長さが2.4メートル以上あります。
突起というのは縄掛(なわかけ)というもので、大きなものは縄を突起に巻いて引っ張るのですが、仁徳天皇陵のフタには長辺と短辺に合計8つ、あります。
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笛吹神社古墳のものは、それよりもやや小ぶりな(長辺が30~60センチ短い)ためか、縄掛は長辺だけ(4つ)のようです。
古墳時代後期(西暦500年代)大王級の人物が笛吹神社に葬られた?★★
これほどの大きな家形石棺は、古代の大王、もしくは大王級の人物と考えるのが自然ですが、(多くの古墳と同様に)考古学の発掘では特定できていません。
冒頭で書いたように、御神体に相当するような埋葬人物は、前回紹介した神社のご由緒で登場した(推定で紀元前100年ごろの)笛吹連の姓名をたまわった櫂子(かじし)と考えるのがスッキリするのですが、それでは考古学が推定する築造年代と合いません。
普通に考えれば、築造年代頃(古墳時代後期)の笛吹連の頭領の墓というところですが、しかし、それにしては、石室や石棺の規模が大き過ぎるように思えます(古墳時代、葛城王家は一豪族レベルにまで衰退)
そこで古代によく行われた『改葬』を考えてみると、もしかしたら、笛吹連の祖神、天香山命(あまのかぐやまのみこと=石凝姥命(いしこりどめのみこと)、天の岩屋神話の登場人物)だったのかも知れません。
残念ながら(今のところ)本当のこと(史実)はわかりません。
しかし、古代妄想が膨らむような「点」が、この葛城山一帯には散らばっています。
そのあたりは、ひとつひとつ(時々になりますが)紹介してゆきたいと思います。
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丘の下から笛吹神社のある方向(神社は山の中央あたり)を見上げた写真。
丘全体が大きな古墳のように見えませんか。もちろん自然地形なのかも知れません。
もし丘全体が古墳だったのであれば。。。
笛吹神社古墳は、はるか昔、もっと大きな(大王級)の墳墓で、後に、現在に残る規模に縮小されたのかもと、考えたりします。
説明・文字起こし)葛城山系から東へ派生した低い丘陵上に総数約80基からなる笛吹古墳群があり、(笛吹神社本殿裏の)笛吹神社古墳はその古墳群の東端に築かれた円墳である。墳丘規模は東西約25メートル、高さ約4メートルである。埋葬施設は南に開校する横穴式石室であり、玄室の中央に石棺が1基ある。石室は全長約12.5メートルであり、玄室の壁には1.0~1.5メートルの花崗岩の巨石を3~4段積み上げ、5枚の天井石が架けられている。石棺は凝灰岩製のくりぬき式家形石棺であり、蓋の長辺にそれぞれ2か所の突起がある。石棺蓋は長さ約2.1メートル、幅約1.25メートル、高さ0.6メートルを測る。6世紀に築造された笛吹神社古墳は、大型の石室に家形石棺をおく葛城地域屈指の後期古墳である。指定年月日:平成10年3月20日(平成30年3月、奈良県教育委員会)