ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

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古代上町半島 最大級の謎・大坂城(4)家康公の慎重 秀吉公の性急 そして信長公の逡巡?★★★

まとめ

大坂城にまつわる謎。#信長公 はなぜすぐに築城しなかったのか。逆になぜ #秀吉公 は築城を急いだのか。なぜ #家康公 は豊臣天守跡を埋めてまで真新しい城を再築したのか。#戦国三英傑 の違いは何だったのでしょうか

目次

徳川期再築天守閣の謎

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赤ラインが石山本願寺時代以前の地盤、黄ラインが豊臣期天守の地盤と石垣、青ラインが徳川期天守の地盤と石垣

前回(3)で「秀吉期の天守閣は、現在すべて地中に埋もれており、その程度は不明です」と書きましたが、これに対し、楓屋さん(id:kaedeya)よりいただいたブックマークコメント

「・・・なんで秀吉くらいのわりと近い時代の大きな建物が土に埋もれてしまうのか、と。ここは洪水?」

洪水ではなく、実は、埋められたんですね。

この点、歴史学者も首をひねる謎です(写真のパネル、最後の5行)

文字起こし)・・・昭和34年(1959)に実施された「大坂城総合学術調査」では、石垣の刻印調査などの結果から、現存の大坂城がすべて徳川幕府再築後の遺構であるという予想外の事実が判明した。さらに本丸の地下7.3mの地点から下方に続く、古い”謎の石垣”が発見された・・・

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大阪城の謎(城内博物館・情報コーナーパネル)

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豊臣期天守閣があった場所は立入禁止の空間 東に生駒山

家康公:埋めてから ましろに建てよ 大坂城

● 徳川期再築天守閣の寿命:1620年築城開始~1630年ごろ完成~1665年落雷により焼失

大坂夏の陣を勝ち抜き、ライバルのいなくなった家康公。徳川大阪城は初代家康公、二代目秀忠公、三代目家光公の合作。

豊臣期天守は跡形もなく埋められ、その西側に、真新しい石積・石垣で天守が再築されました。

(2)で紹介したように西日本各地から、わざわざ巨石を海上輸送するという多大な労力をかけて築城されました(第1期1620年~、第2期1624年~、第3期1628年~)

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全国の大名の財力をそぐ参勤交代のような狙いがあったのかも知れませんが、それにしても『完璧なまでに真新しく築城した』意味を考えてしまいます。それまでの構造物を地中に埋め、新たな場所を整地してまで、です。

この完璧主義は「古来よりそこにあったはずの何ものか」に対して、秀吉公のように、真上に建てることを憚(はばかった)ったのではないかと疑っています。

「怖れ」のようなものがあったかはわかりません。

それはそれとしても、結局、徳川期再築天守閣も短命でした。

1660年に場内の火薬庫・焔硝蔵(えんしょうぐら)への落雷・大爆発で城域全体に甚大な被害が出た後、1665年の落雷で天守閣が焼失し、その後徳川期~昭和期(1928年)を通じて天守閣のない時代が続きました(爆心点近くの門が10数キロ離れた生駒山のふもと(暗峠、くらがりとうげ)まで吹き飛んだという記録が残っているそうです)

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後に再建され現存する焔硝蔵(大爆発の反省から耐火・耐久・防水に工夫)

秀吉公:建てるなら 一夜で建てよう 大坂城

● 1583年築城開始~1615年大坂夏の陣で焼失~1620年家康公により完全に埋められる

時代はさかのぼりますが、秀吉公は、石山本願寺跡にかぶせるように、大坂城天守閣を建てました。

本能寺で信長公が亡くなった直後から、天下統一に向けて秀吉公が最初にした仕事です。

秀吉公は(信長公が居なくなって)「せきを切るように」築城した印象がぬぐえません。

残念ながら、秀吉公の時代の礎石や石積みは家康公によって完全に埋められてしまいましたので、発掘のほかに実態を知る術がないですが、上で紹介した昭和34年(1959)の「大坂城総合学術調査」では、地下7.3mよりも深い地中に謎の石垣が存在することが確認されていますから、さらにその先に何があるのか、1日も早く再調査(発掘)をお願いしたいところです。

私の拙い戦国史観では、秀吉公は実利主義、極端に言えば唯物論者で「現場で調達できるものは100%利用して、最短・最大効率で築城した」のではないかと考えています。つまり石山本願寺が利用した石山の石材(イワクラ)を心置きなく利用した。

発掘調査を行えば、石の利用状況によって秀吉公の大坂城築城に対する意識・スタンス、場合によったら、秀吉公の考え方や性格も明らかにすることができると信じています。

信長公:建てるのか 建てぬものかの 大坂城 ★★★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

家康公、秀吉公とくれば、信長公も並べてみたくなるのは人情。

実は、信長公が最初にドラゴンの頭にクイを打ち込んだと考えていましたが、記事を書くのに調べていて、ずいぶん考え方が変わりました。

というのも、はじめにクイを打ち込んだのは石山本願寺衆だったと理解したからです(前回(3)を参照)

信長公の天下布武の残された障害、本願寺衆を打ち破ることは必定であったとはいえ、粘り強く「石山」を手中に収めようとした動機の中で築城は最優先ではなかったのでしょうか。

信長公ほど、交易と物流・商流パワーが天下獲りの源泉であることを知っていた人はいないと思いますし、京の都、安土桃山(琵琶湖)に水路で直結する石山に、なぜ城を築こうとしなかったのでしょうか。

かつ、四方の見通しがよく、石山合戦では最強の織田軍でさえも10年をかけて落とせなかった難攻不落の要塞(都市)。

ついつい「信長公でも逡巡することがあるのか」と考えてしまい、むしろ、それゆえに腑に落ちないままです。

ひとつ、まったくの古代妄想(★★★)でありますが、尾張は、はるか古代に葛城(尾張)から移住した人々がクニづくりを始めた場所であったという伝承があり、そのことと関係があるのかも知れません。

信長公は、古代(先祖)の聖なるイワクラが、土中の礎石になっていることを知っていた。。。のかも。

秀吉公:建てぬなら 一夜で建てよう 大坂城 ★★★

一方、秀吉公は『(信長公が)建てなら』、腹の内で考えていたのかも知れませんね。

(このシリーズいったん尾張 終わり)

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大阪城 虎 鯱