まとめ
大阪城の魅力のひとつは #巨大な石垣。大手門から天守閣に行く途中、各所でその大きさに驚かされます。#徳川期再築天守 では西日本全域から集められました。山から切り出された巨石は瀬戸内海路で大坂へ。さて、この技術と熟練はいつの時代から継承されたのでしょうか
目次
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古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
豊臣期天守と徳川期再築天守
城内・情報コーナーのパネルで説明されている通り、大坂夏の陣で焼失した豊臣期天守は、今の天守閣よりも東(写真では右)の方に建てられていました。
時代とともに、地盤(と石垣)が強化されています。赤ラインが石山本願寺時代以前の地盤、黄ラインが豊臣期天守の地盤と石垣、青ラインが徳川期天守の地盤と石垣。
古代から継承された築城技術
巨石の運搬の解説パネルでは修羅(しゅら、V字型)が描かれています。
修羅は道明寺天満宮(大阪府藤井寺市)近く、土師氏(はじし)の三ツ塚古墳から出土していますが、巨大古墳(前方後円墳など)の造営でも使用されていた巨石運搬具です。
巨石の石垣づくりには
「良質(均質)な巨岩を産地で切り出し→海辺まで運び(浜出し)→舟に載せ海路輸送→引き上げて陸路運搬→最終的に形を整え→積み上げる」
という(現代でも想像が難しい)莫大なプロセスが必要ですが、これらのひとつひとつの技術と習熟も古代からの継承です。
パネルに「六甲(御影・芦屋)」と書かれている六甲山系は良質かつ巨大な御影石(みかげいし)、つまり、花崗岩の一大産地。
有名な飛鳥時代の「益田の岩船」は花崗岩(11m×8m×5m、約1,000トン)で、この「超」のつく巨石が、六甲山系から、海路と水路と陸路で、ヤマト橿原まではるばる運ばれてきたと考えられます(瀬戸内海→紀の川→御所→橿原市)
荒唐無稽と思われるかも知れませんが、ヤマトで採れない巨大な花崗岩をどこからどうやって運んで来たのか。
他に候補地や運搬方法を考えようがないのも事実です。