今回の江戸行きでは、浅草神社(三社祭)と鹿島神宮にお参りした。
少し気になって、今から約6000年前の縄文海進の時、
つまり、今よりも海が5メートルも高かった最高海抜時に、鹿島神宮と浅草神社のある場所がどうだったかアースダイビング地図を作ってみた。
元地図は荒川区史さんからお借りし、グーグルで鹿島神宮・浅草神社の位置をプロットした地図を重ねて作ってみた。
参考に、今回、行けなかった香取神宮と息栖(いきす)神社の位置も重ねてみた。
手作業なので多少の誤差はご容赦いただくとして。
6,000年前には神宮・神社はなかったのであくまで参考にご覧ください。東国三社のある場所は海抜が最も高かった時期でも海面に現れた土地だった
実際にお参りしていないので、はっきり書くことはできないが、香取神宮も息栖神社も、いざという時の防災拠点になりそうな高台にある。
あらためて機会を見つけてお参りしたいと思う。
浅草神社は遠浅の海の底。ちょこっと海に突き出した古代東京湾の岬の先端あたり、地図の時期より海抜が後退(海退)した弥生後半~古墳時代に創建されたイメージ。
先日紹介した浅草神社の由来の話とも符合する。
この地図を見るにつけ、徳川家康が真に機略に富んだ人だったことをあらためて理解する。
幕府を開いたとき、海域はすでに巨大な湿地、干潟になり、水田化が可能な状態だったのだ。もちろん徳川幕府は水田開発(干拓)とコメの品種改良を奨励した。
新天地を「面積×収量」の石高(収量の部分は自助努力)基準で大名に配分した。3Dな領地配分法で文句を言わせない巧妙なシステム。
それが天下泰平の二百六十年、徳川幕藩体制の基盤であり、江戸に幕府を置いた最大の理由だと思う。
秀吉はここに気づかなかったから新領土を求めて「唐入り」という無茶をしてしまった。結局、それが尾を引き、実質一代で豊臣時代は終焉した。発想の差を感じる。