はじめに
四条烏丸から徒歩5分。#膏薬辻子 といわれる京街の風情が残る通りに #平将門公 を祀る #神田明神。討たれた将門公の首級が京に送られ晒されたところと伝えられます。平安時代の #空也上人 が建立したお堂が今に継がれています
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京都 神田明神
(35.00344699065137, 135.75591513165705)/京都市下京区新釜座町726/四条烏丸交差点から徒歩5分
御祭神:平将門命、大己貴命(オオナムチノミコト)、少彦名命(スクナヒコナノミコト)
御由緒)平将門公は桓武天皇五代の後裔で、東国において武士の先駆者「兵(つわもの)」として名を馳せた人物です。この地は天慶の乱(940。平安時代中期)に敗れた将門公の首級(しゅきゅう)が京都に運ばれ晒されたと伝わる場所です。古来よりこの地に小祠が祀られておりましたが、このたび将門公を祀る東京の神田明神よりご祭神をお迎えいたしました。皇居のほとり、千代田区大手町の「将門塚」は、京の都で晒された首級が胴体を求めて関東に飛び、力尽きて落ちた場所として今なお都心の霊所として、将門公の「強気を挫き、弱きを助くる」精神を慕い、参拝がたえません。東京に鎮座する神田明神は、大己貴命・少彦名命とともに、平将門命を祀る神社です。天平二年(730)に大手町・将門塚周辺に創建され、その後、延慶二年(1309)に将門公が合祀されました。元和二年(1616)に江戸幕府により江戸城(現在の皇居)から見て表鬼門守護の地へ遷座しました。江戸幕府より「江戸総鎮守」の称号をいただき、徳川将軍をはじめ江戸の町人たちにより崇敬されてまいりました。神田明神の大祭「神田祭」は「天下祭」「御用祭」とも称され、江戸城内において徳川将軍が上覧しました。明治七年(1874)には明治天皇も親しくご参拝されました。現在は「祇園祭」「天神祭」とともに日本三大祭の一つに数えられ、二年に一度、五月中旬に行なわれ、二百基に及ぶ神輿が賑やかに担がれております。なお、この土地・建物は、神田神社責任役員氏子総代・遠藤達蔵氏のご遺志を継ぎ、娘の平野徳子さまにより寄贈されたものです。平成三十年四月吉日。神田明神社務所。
膏薬辻子(こうやくずし)
京都神田明神は、釜座町(かまんざちょう)、古くから膏薬辻子(こうやくずし)と言われる京都らしい風情の通りに鎮座しています。
京都市内には古い町割りの結果、現在でもたくさんの辻子(圖子)があります。辻子とは幅二メートルぐらいで通り抜けができる小路のこと。(路地は通り抜けできない袋小路。)
この辺りは、天慶の乱で討たれた将門公の首級を晒したところで、家を建てると祟りがあるといわれていました。
空也上人(くうやしょうにん)
空也上人(くうやしょうにん)が将門公の亡霊を供養するため建立した小さなお堂を、京の人々が「空也供養の道場」と呼び、それが訛って「膏薬」になったのが膏薬辻子の名の由来と言われます。(京都ではこういうケースが多いです)
中世以降、辻子の人家の中に五輪塔と小祠をおいて将門公を祀っていましたが、明治末ごろに取り払われ、昭和~平成には民家の軒先に小祠があるだけになっていました(図会の挿絵の通り)
それからの経緯が上記の御由緒の通り。つい最近の平成三十年になって、東京の神田明神より(あらためて)勘請して現在の小社として再興されました。
観光客の通行も多い膏薬辻子では、美観維持も含めて細かなルールが定められていますね。