摂津国島下郡であった現在の #大阪府茨木市 には #春日神 を祀る神社が多く、その始まりは #藤原鎌足 公であり、平安時代には #摂関家 の領地でした。鎌足公の墓から出土した #水紋様の古代レンガ を考察 #中臣氏 #海人族 #阿武山古墳
目次
本文
摂津国 島下郡
大宝律令(701年、大宝元年)で定められた摂津国島下郡(せっつのくにしましものこおり)は、現在の茨木市、摂津市、吹田市。
平安時代の延喜式神名帳に、島下郡の十八座が式内社として記載されており、うち現在の茨木市には十二座が残っています。
茨木市立文化財資料館パネルの『摂関家領』とは平安時代の藤原家のことで、藤原家の氏神が春日神*1であることから、春日神社が多いと書かれています。
式内社の他にも安曇磯良(あどのいそら)を祀る疣水磯良神社(いぼみずいそらじんじゃ)などがあります。
簡単に言えば、安曇磯良は八幡信仰で登場した(記紀神話には登場しないという意味で)新来の神で、岩清水八幡宮の由緒と云われる八幡愚童訓には『磯良と申すは、鹿ノ島明神(筑前)、鹿嶋大明神(常陸)、 春日大明神(大和)のことで、みな一体分身、同体異名であられる。 志賀海大明神(志賀島神社の御祭神)であり、春日大社の天児屋根命(あまのこやねのみこと)と同じ神』と書かれている通り、
安曇磯良神も春日神ということになります。
鎌倉時代に隆盛となった八幡信仰(安曇磯良神)が、正統視される記紀神話(天児屋根命)と結びつけられ、いわゆる権威付けられているのが面白いですね。
八幡愚童訓の内容から、春日神は海人族・安曇(あど)の系統と考えることができます。
鎌足公の飛鳥時代、天智天皇に名を賜って、中臣氏から改名した藤原氏は、
それまでは「中心的な臣下」として、忌部氏(四国阿波系)とともに、王権に従って祭祀を管掌する海人の血脈でしたが、
藤原氏となって「臣、おみ・とみ」と言う格下を脱却し、ついに王権ナンバー2となります。
鎌足公が大織冠(だいしょっかん)とともに藤原の姓を賜ったのは死の前日。
死を迎えた鎌足公の心境は、大きな喜びと哀しみと後悔*2、そして先祖たちの長旅への憧憬がないまぜになった複雑なものだったのではないでしょうか。
鎌足公の墓室を覆っていた古代レンガ(塼、せん)の水紋様は、海人の先祖たちが見てきた長旅の記憶かも知れません。
であれば水紋様は、すべて棺の方を向いていたに違いありません(記事作成段階ではこの点は未確認)
先祖の海に還った父に代わり、不比等(ふひと)の平安時代に、摂関家として、ついに、実質的な王権ナンバー1に上り詰めた藤原氏のサクセスストーリーが垣間見えます。