阿武山古墳が #藤原鎌足 公の墓と考える理由と #多武峰略記 の記述に反して改葬されなかった理由についても考察 #偽装作戦 から自身が亡き後も国を守ろうとした人物像が浮かび上がります #藤原氏とは #記紀解読
目次
本文
阿武山からの眺望
先日、阿武山古墳のすぐ近く、山腹の地震防災サイエンスミュージアム(旧京大地阿武山震観測所)の施設見学に参加して来ました。
目印となる高い観測棟は、阿武山古墳からも見えます。
大雨の翌朝の蒸し暑い日でしたが空気が澄んで、遠く瀬戸内海の淡路島を見ることができました。
大阪の中心部(大阪城、難波宮)を南に見下ろし、ヤマトの国を背後に、東の生駒山系(生駒の大鳥)も一望。
イイねくださった方
— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2024年8月25日
スミマセン!m(_ _)m
再アップします。
六甲山系から生駒山系まで。
南の大阪平野を一望。#阿武山地震防災ミュージアム
からの眺望 pic.twitter.com/yxYPEsyqmH
鎌足公が葬られるべき所。阿武山
素晴らしい景色を眺めていて、藤原鎌足公が葬られるべき場所はここしかないと、さらに確信するように。
難波津の国際港湾都市として発展した難波宮は、鎌足公と志を同じくする中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)がサポートした第36代孝徳天皇の都。
中大兄皇子が第37代天智天皇の時代、白村江(はくすきのえ)の戦い(663)で唐と新羅の連合軍に大敗し、かろうじて逃げ帰って来ました。
さらなる追撃を怖れて海に面した難波宮を放棄し、内陸の近江(琵琶湖畔)に都を遷したという緊迫の時代を迎えます。
国際的な緊張状態が続く中で鎌足公は亡くなります(669)。
鎌足公は、唐と新羅の追撃軍が来るであろう瀬戸内海〜難波宮ルートを、未来永劫、見張り続ける役割を自ら担ったのではないか?
であればヤマトの多武峰(とうのみね、談山神社、御破裂山)への改葬は、見張りの墓を暴かれないための偽装作戦であった と考えることができます。
(多武峰略記:遺体は安威山(阿武山)に埋葬の後、定慧が多武峰(とうのみね、談山神社、御破裂山)に改葬した
藤原氏(中臣氏)とは?
中臣氏(藤原氏)は、出雲の時代から 王家に仕える家柄でした。
そのあたりの歴史は、当ブログでもまだ十分には紹介し切れていないので、今後、どう書いていこうかと練っていましたら、
前回の投稿(FB古代史グループ)に、開物が書きたいことプラスアルファを書いてくださったコメント(Mayumi Ukaiさん)をいただきましたので、
一部手を加えましたが、ほぼ全文コピペで紹介させていただきます😀
当ブログで未紹介の部分は補注=開物コメント。徐福の過去記事も紹介しておきます。
古代史の真相的な話ですので、異論も多々あるでしょうが、目下のところ、私の考察結果ともほぼ一致しますので、よかったらお読みください。
出雲口伝を読んで、古事記には何ひとつ無駄なことは書いてなかったのだと確信しました。出雲口伝と古事記は同じことが書かれています。全て意味があり、伝えたいことだったのです。おかしな表記こそ、残して伝えたいことです。ダイレクトに書けなかったから、ヒントを残したのです。謎掛け、ダジャレ、大喜利、和歌の手法
伝えたくてたまらない…そんな作者*1の思いが伝わってきます。何故、そのまま史実が書けなかったか…それは不比等が云々という個人的なことではなく、日本という国を護るためだったと思います。正史編纂の時代は白村江の敗戦の直後で、いつ唐に攻め込まれてもおかしくない状態でした。
大王家の血脈に徐福*2があるなどと書けば、唐が自国領であると主張し、侵攻の正当性を与えるようなものです。ですから、絶対にその名は隠さねばならなかった。徐福を出さずにヤマト政権の創建*3を描くにはどうしたら良いかと考えに考えた末の神話であったと思います。
同じように、卑弥呼である豊玉姫*4もその存在を隠されます。豊玉姫は東征*5するにあたり、魏の後ろ盾を貰うために朝貢し、自ら魏の属国となったのです*6。こちらも隠さねばならなかった重要事項です。
プライドとかそんな問題ではなく、百済が滅亡した様子をみれば、他人事ではなかったと思います。日本の独立を護るため、言えないことが沢山あったのです。それでも史実をなんとか残したかった。分かる人には分かる…そのように記されていると思います。
*1:稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録し編纂したのは太安万侶
*2:じょふく=ニギハヤヒ。司馬遷の史記に登場する秦の始皇帝時代(紀元前200年頃)の人物。道教の司祭。ヨセフと読むこともできる説から日本ユダヤ同祖論。スサノオのモデル。物部氏の祖
*3:初代神武天皇は「丹波の海部家=葛城では尾張家」の天村雲(アメノムラクモ)。ヒメヒコ制の時代、出雲の事代主と三島の玉櫛姫の娘で太陽神を信奉した姫巫女のタタライスズヒメ(富登、ホト)と婚姻することで王として認められた。天押雲根命の神名で春日大社の若宮に祀られている。記紀で登場する藤原氏の祖神・天児屋根命の息子とされる。天村雲には出雲西王家の血脈が混ざる。中臣氏は西王家に奉仕
*4:出雲伝承では宇佐(トヨの国⇒豊前・豊後。最盛期には山口県南部にまで勢力)の姫巫女の豊玉姫。月神を信奉した。東征途上、広島の厳島で亡くなる。娘の豊来入姫(台与、豊鋤入姫)が後継。彼女は椿大神社(三重県)で亡くなった後、ホケノ山古墳に埋葬される。ホケノ山=豊家の墓
*5:九州王朝=邪馬台国(宮崎)と大和王朝の並立期。歴史的には第二次となる東征(西暦250年頃)は九州王朝の大和王朝への侵攻