前回の #阿武山古墳 の続き。古墳の埋葬者が #藤原鎌足 公説を強く支持するお話を二つ。埋葬者のレントゲン写真からわかる致命的な骨折痕。鎌足公を通じて繋がる #阿武山 と #東奈良遺跡 #三島別業
目次
本文
ざっくり藤原(中臣)鎌足公
藤原鎌足公は、第35代皇極天皇(飛鳥)、第36代孝徳天皇(難波宮)、第37代斉明天皇(飛鳥、皇極の重祚)、第38代天智天皇(近江)の時代に活躍した人で、
・皇極時代、中臣を称していた鎌足公は、中大兄皇子(後の天智天皇)と謀り、乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺して政事の主導権を握り
・孝徳・斉明の二代にわたって天皇を補佐する中大兄皇子をサポート。天智期には実質No2に出世。
・山科野の狩りで落馬して背中を強打する大ケガを負い(日本書記)、床に臥せる鎌足公を見舞った天智天皇より、死の前日に内大臣(天皇に次ぐNo2)の職制と 大織冠(だいしょっかん)、藤原姓 を賜る
・子に留学僧の定慧(じょうえ)、不比等(ふひと)がおり、不比等は平安京造営を主導、後の平安貴族・藤原氏の流れをつくった
・遺体は安威山(阿武山)に埋葬の後、定慧が多武峰(とうのみね、談山神社、御破裂山)に改葬したという(多武峰略起)
・大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)で誕生したとされる(藤原家伝)が、明日香説のほか、中臣の拠点であった常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)とする説もある(Wiki)
・定慧が孝徳天皇のご落胤であるとする話も伝わる(摂州島下郡阿威山大織冠堂(大織冠神社)縁起、出雲伝承)
理由① 阿武山古墳人骨の致命的な骨折痕
前回記事でも紹介しましたが、阿武山古墳に埋葬されていた遺体は「貴人」とされるほどの豪華な副葬品とともに眠っていましたが、
昭和9年の発掘時に撮られたエックス線写真が、近くの京大地震観測所で発見され、あらためて専門的な分析が行われたところ
肋骨が分離するほど折れ、脊椎損傷が見られる重症で、当時の水準では十分に死因となり得ると判定されました。
この話は、先の山科の野での日本書記の記述に符合します。
理由② 神奈備の阿武山に埋葬される深い意味
当ブログでは、阿武山は弥生古代の有力な出雲型都市国家のひとつ ミシマのクニ の信仰の山、神奈備の山だったと紹介していますが、
安威山(あいやま)とも云われた阿武山は、ミシマのミヤコだったと推定される東奈良遺跡の真北に位置します。
こういう位置関係は、むしろ、阿武山を南から遥拝する位置に、ミヤコが置かれた可能性を物語っているようにも思えます。
上賀茂にも例があるように、真北遥拝の神奈備は、海人属性(北極星を観る)もある鴨(賀茂)の特徴と考えることができます。
弥生の信仰の山の意味は、鎌足公の飛鳥時代には薄れていたのかも知れませんが、
それにしても、信仰の山、しかも山頂付近にお墓を置くというのは、大和で例えると、三輪山山頂にお墓を築くのと同じで、たいへん畏れ多いことで、よほどの歴史(血脈)と人物(業績)でなければ、あり得ない話かと思われます。
もうひとつ、鎌足公を通じて、東奈良遺跡と阿武山古墳の深い繋がりがわかるお話。
前回、阿武山古墳の墓室から飛鳥時代に特有の 塼(せん) というレンガが多数見つかっていたことに触れましたが、
同時代・同紋様の塼(せん)が、東奈良遺跡から出土しています。
もちろん、弥生遺構ではなく、飛鳥時代の遺構からの出土ですが、
これは「皇極時代に神祇伯(宗教長官)に任じられたのを固辞し 三島別業(ミシマの別邸) に隠居した」という記録と符合します。
つまり三島別業は、古代ミシマのクニのミヤコのしかも中心にあった可能性が高いということになります。
このあたりは、リンク先1)2)をご覧ください。
次回は続きと、中臣氏と鴨族(賀茂氏)との関係について少し。