現在の大阪府茨木市〜高槻市(淀川の北岸エリア)は、古代に #三島 と呼ばれ、弥生出雲の有力な都市国家のひとつがあったと伝承されます。そのこん跡を探しに #太田神社 と #太田茶臼山古墳 をぐるりと回ってきました。#阿武山 #阿部氏
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(34.8438304, 135.5768731)/大阪府茨木市太田3丁目15−1/阪急京都線・茨木市駅から近鉄バス(50301系統)太田バス停下車徒歩10分。JR京都線・総持寺駅北へ徒歩20分
御祭神は、伊勢の内宮・外宮の女神様に、スサノオノミコトの三柱。
境内からは、東に隣接する太田茶臼山古墳は樹にさえぎられて見えません。
太田茶臼山古墳は、宮内庁によって第26代継体天皇(ヲホド王)の三島藍野陵に治定されています。
しかし近年では多くの考古学者が、ここから東北約2キロの今城塚古墳が真の継体天皇陵と考えるようになりました。
地元の茨木市立文化財資料館のパネルでも、継体天皇には一言も触れられていません😅
ひとつ、古市古墳群の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と相似形であるという説明が面白いですね。
太田茶臼山古墳からは円筒埴輪、近くの太田遺跡(古墳群)からは形象埴輪が出土しています。
太田茶臼山古墳の真の被葬者とは?
では墳丘長226メートルという巨大な大王級の前方後円墳の本当の被葬者は誰でしょうか?
個人的には太田地名から推測できると考えています。
太田地名は鴨(賀茂)氏に由来すると考える当ブログでは、纏向遺跡の太田のほか、京都上賀茂の太田神社を紹介してきました。
共通しているのは、山稜から流れ下る川の扇状地の稲作地帯であったことです(今でも田畑が多く見られます)
豊かな稲作地帯のことを鴨(賀茂)氏は 大田(太田) と呼んだのかも知れません。
日本書紀(第10代崇神紀)には、太田田根子(オオタタネコ)が纏向の三輪山祭祀を司ったことが書かれていますが、
その神話的な登場は創り話*1で、
出雲伝承(冨家/登美家伝承)では、オオタタネコは第9代開化期(西暦200年前後)の人物で、賀茂氏の嫡流*2とされています。
鴨族は、大和(磯城)から山背(京都)に移住し賀茂氏を名乗りますが、茨木市の太田は、その中継地、あるいは、弥生期以来、強大なパワーを持っていた鴨族の領地のひとつだったようです。
したがって、大王級の古墳の築造能力を含めて、賀茂氏が最有力と考える次第。
賀茂氏の信仰の景観(原景)
写真は、冒頭の地図の赤い◯地点から、太田茶臼山古墳を、西の安威川(あいがわ)から撮影したもの。
古墳=大鳥(ヤタガラス)のスガタが見えます。
ヤタガラスの手前に太田神社が鎮座しており、すなわち、大田神社はヤタガラスを伏し拝む役割があったと推測することができます(であれば本来の御祭神は古墳の埋葬者・西暦350〜450年ごろの賀茂氏の嫡流あるいはその祖神)
前方後円墳はサイドから見上げれば大鳥の姿に見えます。
同じ地点から、安威川の上流に、阿武山(あぶやま)を眺めます。
阿武山は豊かな水をもたらす神奈備山。
纏向の三輪山と同じ構図です。
三笠型の御山は龍蛇神がトグロを巻くスガタとして、出雲を源流とする鴨(賀茂)族は信仰の対象としました。
出雲伝承は、二世紀の大和出雲と物部氏の争いから北に退却する大彦(オオヒコ、第8代孝元天皇の皇子)は、ここ太田(三島)に立ち寄り、阿武山の名から、阿部(安部) を名乗るようになったと伝えます。
つまり、遠く遠野〜津軽(陸奥国)に至る阿部(安部)氏の発祥の地と伝えます。