三島(大阪府茨木市)の #溝咋神社 は #溝咋玉櫛媛命(タマクシヒメ)と #媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)の母娘神が御祭神。相殿に祖父神(ミシマノミゾクイミミ)、兄神(アメヒカタクシヒカタ)を祀る最古級の神社
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溝咋神社(みぞくいじんじゃ)
(34.81301940154068, 135.5886570941846)/大阪府茨木市五十鈴町9−21/【徒歩】阪急茨木市駅から東に徒歩30分【バス】阪急茨木市駅発、先鉾橋下車。南に徒歩5分
御祭神:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと、娘神)、溝咋玉櫛媛命(みぞくいたまくしひめのみこと、母神)
安威川(あいがわ)の流れのすぐそば、溝咋神社には、日本の神々になった古代史のビッグネームがファミリーで並びます。
特に太字の御祭神の名は重要です。
溝咋神社は延喜式神名帳に摂津国島下郡の神社として記載されている式内社の一社です。主祭神は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、その母の溝咋玉櫛媛命(みぞくいたまくしひめのみこと)の二柱です。相殿にはそれぞれ、五十鈴媛命の祖父である三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)、兄の天日方奇日方命(あめひかたくしひかたのみこと)、先祖にあたる速素戔嗚尊(はやすさのおのみこと)と、藤原氏の先祖である天児屋根命(あまのこやねのみこと)の四柱が祀られています。五十鈴媛命は三嶋(現在の茨木市を含む大阪府北部一帯)出身で父は神とされ、『日本書紀』神武天皇即位前紀に神武天皇の正妃になったと記されています。(以外略)
祖父神・三島溝咋耳命(みしまみぞくいみみのみこと)
溝咋は溝杭とも書き、弥生時代の水域近くの傾斜面を利用した灌漑稲作水田づくりなど、現代の土木建築工事に相当する仕事および集団をあらわす言葉と考えられます。
「耳」はそんな技術者集団の長であることを示す尊称。
三島溝咋耳命は、東奈良遺跡をミヤコとした弥生出雲の有力な都市国家のひとつ ミシマのクニ の首長であったと考えられます。
米の収穫が終わった神在月、一年の労をねぎらい、出雲に集まる首々(かみがみ)の有力な一人であったと考えられる人物。
母神・溝咋玉櫛媛命(みぞくいたまくしひめのみこと)
タマクシヒメまたはイクタマヨリヒメ(活玉依姫)。
先日紹介した三島鴨神社の幾島大明神(いくしまだいみょうじん)はおそらくイクタマヨリヒメからの中世の神名で、つまりタマクシヒメのことと考えられます。
神のヨリシロをあらわす玉依(タマヨリ)の名は重要で、タマクシヒメはミシマのクニの姫巫女(ヒメミコ)であったはずです。
ちなみに東奈良遺跡(茨木市文化財資料館)のエリア内に、茨木市玉櫛という地名が残ります。
私が東奈良遺跡がミシマのクニの中心地であったと考える根拠のひとつです。
ヤマトの三輪山(纏向)も同じですが、神奈備(阿武山)を遥拝するヒメミコの居るところは太陽祭祀のミヤコでした。
続きます。