風そよぐ楢の小川の夕暮れは禊ぎぞ夏のしるしなりける
北西から流れてくる楢(なら)の小川が主流、北東からの御物忌川(おものいがわ)が合流した一帯北側に本殿。ならの小川が下って分流(沢田川)が造られ境内庭園・渉渓園を巡る。
ならの小川は境外に出ると明神川に名を変える
地図では見えないが、ならの小川はもう少し上流で、北東からの御手洗川(みたらしがわ)と合流している。
境内図には記載がなく、HPではなぜか各川の名が詳しく紹介されておらず、調べるのに予想外に苦労した。
以前にも書いたが、下鴨社境内の流れは「せせらぎ」に対し上賀茂社は「川」のイメージ。
丘の中腹に鎮座するため上賀茂社の「なら(楢)の小川」の流れは勢いがある。
面白いのは楼門前の手水舎の「神山湧水(こうやまゆうすい)」の説明。
神山のくぐり水をくみ上げて使用しているとのこと。境内の由緒ある井戸水と同じ水脈の水ということで、地下水のことらしい。
上賀茂社、下鴨社に共通して、古来「(オモテからは見えない)水脈や流れ」が重視されているのかも知れない。
藤原家隆という人。大阪「夕陽丘」の名の生みの親
風そよぐ楢の小川の夕暮れは禊ぎぞ夏のしるしなりける(藤原家隆)
家隆(いえたか、かりゅう)は鎌倉時代の歌人で、新古今和歌集の選者でもあった。
晩年は出家して四天王寺に入り、西側の丘に「夕陽庵(せきようあん)」を結んだ。
見晴るかす「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕陽に、極楽浄土を観想する「日想観」を修した地は「夕陽丘」と呼ばれるようになった。
江戸期までは、大阪湾、遠くは兵庫、淡路島まで見渡せた景勝地であった。
西日が眩しい家隆塚(かりゅうづか)(大阪市天王寺区夕陽丘町)
家隆塚のそばには陸奥宗光の歌碑もある。
ならの小川、渉渓園(1960年造園)
渉渓園は今上天皇(浩宮徳仁親王)のご生誕にあわせて造園された。
上の銅板地図の右下、ならの小川が分流しているあたり。
古くはここにあった神宮寺の古池を改修・拡張した庭園で、古池には龍が住んでいたとされる。
庭園は昭和期で新しいものの「願い石(陰陽石)」や「睦(むつみ)の木」は神宮寺の頃の名残と思われる。