ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【家隆塚】西海に沈む夕陽に端座合掌。桜の春に生涯を終えた歌人

はじめに

鎌倉時代歌人 #藤原家隆 が晩年 #夕陽庵 を結んだと伝わる #家隆塚。桜の春、目前に広がる西海に沈む夕陽に端座合掌しその生涯を終えました #摂津名所図会 #直木三十五

目次

本文

満開の桜 家隆塚(かりゅうづか)

(34.6581600, 135.5126610)/大阪市天王寺区夕陽丘町5−19/大阪メトロ・谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅から徒歩3分、駐車場はありません

家隆塚(大阪市天王寺区

鎌倉時代歌人として、藤原定家と並び称された藤原家隆が、晩年(嘉禎二年、1236)、病を得て出家し、この地に夕陽庵(せきようあん)を結びます。

沈む夕日を遥拝して観想する四天王寺の日想観(じっそうかん)を通じ、西方浄土を求めて、ここに隠棲しました。

契りあれば 難波の里にやどりきて 波の入日を おがみつるかな

約一年後の春、夕日に向かい端座合掌したまま、八十年の生涯を終えたと伝えられます。

「契り」とは、残り少ない余生を仏道(転法輪)に委ねるという決意の表れでしょうか。

家隆塚

なお、この家隆の歌は、平安京で交流のあった僧・慈円愚管抄の作者)が、四天王寺の転法輪石を詠んだ歌に対応しているように思います。

難波津や ふるき昔の あしがきも まちかきものを 転法輪所 この寺を おかむしるしの石の上に かたく を むすびけるかな慈円

慈円は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で山寺宏一さんが演じていましたね。

承久の乱で破れ、隠岐に流されることになった後鳥羽上皇の共通の知り合いで、後鳥羽上皇は、熊野詣(くまのもうで)のため、起点となる四天王寺をたびたび訪れています。

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摂津名所図会の家隆塚

江戸期の観光案内書、摂津名所図会にも家隆塚は描かれています。

(図中に開物追記)

江戸期の摂津名所図会の家隆塚(大江神社(毘沙門堂)と愛染堂)

図会のこちら側(左と下)が西で、当時の夕陽庵は、大阪市中心部を南北に走る上町台地の海岸線のそばにあり、毎日、西海に沈む夕日を拝むのに良い場所でした。

家隆塚 案内板より

直木三十五と家隆塚

直木賞に名が残る直木三十五は、大阪市内、谷町6丁目の人。(四天王寺前夕陽ケ丘駅から二駅、約2キロ)

直木が色気づき始めた中学生の頃の話でしょうか。

家隆塚までわざわざやって来て、女学校にむかってションベンをして帰っていたという😀

「大阪を歩く」より抜粋。

夕陽丘の女学校がこの丘の下へ初めて出来たが、誰かが 家隆塚 へ行くと一目に見えるぞと云い出した。何うも当時から女は嫌いでなかった性とみえて私も同行した。「小便したろか」と、そして一人が学校を見下ろして叫んだら、大部賛成者があった(私は確賛成しなかったと憶えている)。それから、三四遍、小便しに行くと、一日校長が「近頃本校の生徒で、夕陽丘へ行くものがある」と、講堂で云い出した。校長は大抵、紳士だから小便のことは口にしなかったが――真田幸村戦死の地であると共に、私には忘れることのできない所である。

家隆塚 昼の月

家隆塚は、小学生だった私の遊び場でもありました。

この樹には、大阪市内では当時でも珍しかったタマムシがよく飛んで来ました。

キラキラと七色に輝く虫を採った思い出とともに、今は建てられている五輪塔が、塚の斜面にバラバラに転がっていたのをよく覚えています。

私の頃には女学校はすでにありませんでしたが、代わりに、女子大生が多い社会福祉短期大学(現在の大阪公立大学人間福祉学科)の校舎とグラウンドになっていました。

家隆塚

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