ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

奥明日香・飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社 斉明女帝(皇極時代)の雨乞い神事(1)★

女渕あたりの小さな滝

奥明日香訪問。前回の続き

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「あすかのかわかみにいます・うすたきひめのみこと・じんじゃ」・・・神社名の文字数と長さでは日本一、ギネスかも知れない。

日本書記・皇極天皇元年条(642)に、斉明女帝が皇極天皇の時に、奥明日香で雨乞い神事を行ったことが書かれている。いくつか候補地があるが、まずは飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社を訪れた。

日本書記・皇極天皇元年条は記事末にあらすじを紹介。興味のある方はご覧ください。

飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社(あすかのかわかみにいますうすたきひめのみことじんじゃ)

飛鳥川にかかる稲渕(いなぶち)の男綱(おづな)、栢森(かやのもり)の女綱(めづな)の中間あたり。

読んで字のごとく「飛鳥川の川上におられるウス多岐姫様を祀る神社」だ。

奥明日香の四ヶ大字(おおあざ)、栢森、稲渕、畑(はた)、入谷(にゅうだに)の郷社。

郷社とは(複数の)ムラで管理していた神社のこと。

惹かれたのは「多岐」の二文字。宗像三女神の「おたきさま」の神名、つまり、言霊だ。

なお、神功皇后応神天皇も祀られており、宇佐八幡を勧請(おまねき)した時に「ウス」がついたのだろう。古代、霊力の強い神様が後で勧請された時に、古い神名に付け足されることがあったようで、その好例だ。

さて御祭神は? ・・・残念ながら神社石碑横の由緒書きが古くて読めない。

そこで飛鳥の伝承本をあたった。「飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社は水神さんで、古事記イザナミの命に出てくる水の神様「みつはのめのかみ」をお祀りしている(飛鳥坐神社宮司談)」とあった。

「みつはのめのかみ」は罔象女神と書く。あくまでも開物発事の解釈だが「おたきさま」だ。住吉さん・楠珺社そば「おたき道」の先にあったのが「水浪女神(みずはのめのかみ)」の社であったことから学んだ。(水浪女神社は現在立ち入りできない)

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急な石段だった。下から15段、62段、20段、鳥居の坂、34段。合計131段。

飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社

飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社 本殿

宗像三女神と山岳・龍神信仰★

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

宗像三女神は、三輪山奈良県桜井市)信仰を通じて、山岳信仰と結びつき、龍神さんとして各地で祀られるようになる。

三輪山には、入山の狭井神社一帯が辺津の磐座、山腹に中津の磐座、山頂に奥津の磐座がある。

奥津宮が高龗神(たかおかみのかみ)、中津宮罔象女神(みつはのめのかみ)、辺津宮が闇龗神(くらおかみのかみ)に対応する。

闇龗神は暗龗神・厳龗神とも。厳島神社の「厳」。厳島神社の御祭神は三女神だが、主役は市杵島姫(いちきしまひめ)つまり弁天さんだ。

さて、飛鳥川上坐宇須多伎比賣命神社、それに神社前の飛鳥川には滝がない。

ここで斉明女帝の雨乞い神事が行われたとの説もあるが、もう少し奥、栢森のはずれにある女渕にいってみることにした。(続く)

日本書記・皇極天皇元年条(642)現代語訳/奥明日香は日本書紀でも水と雨の神様が坐(いま)すところと書かれている

皇極天皇元年(643)六月はひどい旱(ひでり)だった。七月、村々の巫(みこ)が牛馬を犠牲にして土地の神々を祀っても、祀る場所を繰り返し移しても、川の神を祀っても、効果がなかった。そこで蘇我大臣(蝦夷)は仏儀を行って雨乞いをすることを決めた。四天王像を並べ、たくさんの僧にお経を読ませて小雨が降った。数日後再び祈ったが雨は降らなかったので読経をやめた。八月、皇極天皇飛鳥川の南渕の川上に行幸し、ひざまずいて四方を拝された。天を仰いで祈ると、雷がなり大雨が降り始めた。雨の降り続くこと五日間、国のすみずみまで潤した。

※文中の「南渕」とは稲渕(飛鳥川)あたりと推定される。その川上、つまり、フナト川の流れる栢森~畑のどこかと考えられる

※ここで書かれている巫(みこ)は祝部(いわいべ)ではないかと考える。ゆえに「巫女」とは書かない

※祝は「ほおり」「ほふり」とも読む。「牛馬を屠(ほふ)る」はここから来ているのだろうか