前回から続く
前回紹介した古事記や出雲風土記の、高志(糸魚川)ヌナカワヒメと出雲オオクニヌシ(ヤチホコ)の神話、
実は、日本古代史を考えて行く上で、考古学、いや、日本人に 貴重な教訓 をもたらしてくれたことをご存じだろうか?
実は昭和の初期、小滝川でヒスイ峡(天然記念物)が発見されるまで、日本に産地はないという考え方が一般的で、縄文時代の大珠・小珠、弥生~古墳時代の勾玉がたくさん出土しているにもかかわらず、
「大陸からの輸入」を前提に考察されていた時代があったのだ。
ヒスイ遺物が出土すればするほど、遺跡ごとに大陸文化の影響を検討しなければならない・・・今では信じられない話だ。
相馬御風(そうまぎょふう)という人(1883~1950年)
Wikiで、童謡の「かたつむり」「春よこい」、早稲田大学の「都の西北」を作詞したと紹介されている。
糸魚川出身で、長者ヶ原遺跡の発掘・調査にかかわる中で、
古事記や出雲風土記に登場するヌナカワヒメの持つヒスイは糸魚川産ではないか?
と最初に考えた人だ。
御風さんが提唱したこのアイデア、当時は、一顧だにされなかったんじゃないか思う。
特に考古学からは相手にされず、素人のたわごと程度に考えられていたのでは、と。
なぜなら、御風さんの仮説がイエスなら、専門家たちが(大陸由来を前提に)考察してきたことがノーになるというオトナの事情があっただろうから。
後に御風さんの説を聞きつけて、仙台から鉱物学者(河野義礼氏、東北大学)が駆けつけても現地案内すらせず、
また、河野氏が小滝川で大量のヒスイ(ヒスイ峡)を発見し鉱物学会で発表した後でも、御風さん、知り合いの考古学者には一言もそのことを教えなかったそうだ。
現代風に言うと、相当に「こじらせていた」いたように思う。
忘れられた糸魚川ヒスイの価値。千三百年もの間、漬物石だった理由
弥生~古墳時代、ヒスイ勾玉は大量に造られていたのに、ある時期から一切作られなくなり、奈良時代、東大寺法華堂仏像の宝冠に使用されたのを最後に、ヒスイの利用は途絶える。
糸魚川の縄文から続いた加工産業はすたれ、珍重されていたヒスイ石の価値すら忘れ去られた。
日本では約千三百年という長い間、糸井川周辺でも、漬物石ぐらいの価値しかなかった時代が続いた。
一方、中国では硬玉は変わらず珍重され、様々な宝飾工芸品が造りつづけられ、価値を高めて行く。
この極端な格差が、戦前までの根強い「ヒスイ大陸伝来説」の一因になったのであろうが、神話に暗示された史実を文学者が推理し、鉱物学者がヒスイ峡を発見したという事実は教訓だ。
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伝承であれ神話であれ、ふるくから伝えられているものを「根拠がある・ない」「本物・偽物」の二元論で考えない方がよいと思う。
糸魚川ヒスイの例は、伝承される理由も含めて広く考察、追求してゆかない限り、軽々に判断してはいけないという歴史の教訓だと思う。