ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

洪庵先生(4)虎狼痢と書いてコロリ 近代公衆衛生の礎になったコレラの治療書【少彦名神社・神農祭】

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天保11年の大坂医者番付 開業2年目で洪庵先生の名が前頭に

洪庵先生は、日本の天然痘撲滅の先駆けとなったが、安政5年(1858)に起きたコレラ大流行の際には、当時最新の蘭学知識と情報にもとづき「コレラの治療基準」を書いた本を緊急出版した。

適塾・説明パネル文字起こし

洪庵の医師としての活動は、瓦町に蘭学塾としての適塾を開くと同時に医業を開業した天保9年(1838)にはじまる。体調を崩しがちであった洪庵だが、ほぼ毎日往診に赴き、時には優秀な塾生に代理診察を任せた。開業2年後にして大坂の医師番付に登場しているところから、早くからその腕の確かさが市井の評判となっていたのであろう。

洪庵の実地医療の面での功績として、二つをあげることができる。一つは嘉永2年(1849)に日本にもたらされて間もない牛痘種痘法を、大阪から西日本各地に広めたこと、もう一つは、安政5年(1858)のコレラ大流行に際して、コレラ治療法が記された蘭書をいち早く翻訳し『虎狼痢治準(ころりちじゅん)』としてまとめ、緊急出版したことである。現代の予防医学や公衆衛生にもつながる、先駆的な功績である。先駆的であるゆえに、人々の種痘への理解を深めるために苦労したり、『虎狼痢治準』の出版に際しては緊急をやむなしとしてわずか5、6日で完成させたために他の医学者から不備の指摘を受けたりと、どちらも困難をともなうものであった。それでも根気よく、病に苦しむ人々を救うべく努力を重ねた洪庵の姿勢からは、社会に対する責任感の強さが伝わってくる。

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緒方洪庵適塾そば

患者が(急激な脱水症状とコレラ菌毒素で)あっけなく亡くなることから「ころり」と呼ばれていた病に、洪庵先生は『その恐ろしさは虎や狼の如し』と『虎狼痢』の当て字をした。

コレラの世界初のパンデミック(感染爆発)は1820年前後、インドからインドネシア、中国、朝鮮半島を経て、日本にはわずか数年後、鎖国していたにもかかわらず、文政5年(1822)に到達。

したがって、安政5年(1858)の大流行は日本で二度目だった。

なお、コッホがコレラ菌を発見したのが明治17年(1884)。つまり、洪庵先生の時代は、病気の原因がわからず、治療法も確立していなかった。

洪庵先生は、当時の日本で標準治療と考えられていた『長崎オランダ医師・ポンぺのキニーネ服用※』に対して、自ら翻訳していたフーフェラント(ベルリン大学)や、他の蘭学書に記載されたコレラ治療法との矛盾点を見つけ、自身の見解を付けてまとめ、医師仲間に知らせるため『虎狼痢治準』を刊行した(100部限定)。

キニーネマラリヤ治療薬として知られていた。現在ではコレラ毒素を阻害する作用があることは確認されているが、コレラの根本的な治療法ではないことがわかっている

結局、洪庵先生の治療方針は、塾生の長与専斎(後の内務省衛生局長)に継承され、①伝染病発生の届け出、②患者の隔離、③発生場所周辺の消毒をセットにした明治以降のコレラ対策の基本、いわゆる、現在の予防医学、公衆衛生の礎となった。

文政5年(1822)コレラ大流行と少彦名神社の神農祭

後年の洪庵先生の適塾少彦名神社は目と鼻の先。

安政9年(1780)薬の街・道修町(どしょうまち)に創建された少彦名神社では、日本の薬の神様・少彦名命(すくなひこなのみこと)と漢方(中国医薬)の祖神・神農炎帝(じんのうえんてい)を祀るが、文政5年のコレラ大流行をきっかけに無病息災を祈る神農祭が始まった。

・・・大坂でコレラが流行した際に薬種(商)仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を作り、「神虎」(張子の虎)の御守と一緒に神前祈願の後施与したことに由来するといわれております。

詳しくは 神社公式ページ(神農祭) をご覧ください。