石巻市に、いとこがいる。
20年前に亡くなった育ての母が宮城(今は石巻市に合併された旧桃生郡)の人で、その姪っ子が大阪の高校に通っていたとき同居していて、私は小学~中学生だった。
それ以来、お互い、いとこと思って過ごしてきた。
いとこ夫婦は石巻市の魚市場のある港から4キロほど奥、旧北上川のそばに、
いとこのお父さんと弟は、海にほど近い港町に住んでいた。
2011年3月11日の東日本大震災の発生時、お父さんはいとこと一緒に夫婦の自宅に、弟さんは港町の仕事場に居た。
弟さんの仕事場と自宅は近く、一帯はいち早く数メートルの津波に洗われたが、とっさに近くのスーパー屋上に駆け上がり、命からがら無事だった。
いとこ夫婦とは直後に電話が繋がったものの、わずかな会話だけで切れてしまったので状況がわからないままだったが、たまたま夜に三人が自衛隊のボートに乗せられて、浸水地域から避難しているニュース映像を見て、無事を確認した。
わたしは「こうじ」という名だが、強い東北なまりで「こんず、こんじ」と、よく可愛がってくれたお父さんは、当時、90才を超えていて、震災後から体力・気力とも弱り、数ケ月で天に旅立った。
「釜」が付く地名が伝えること(釜は鎌とも書く)
震災から四年後の初夏(2015年)、気がかりだった「おいちゃん」の墓参りにようやく行くことができた。
石巻では、おいちゃんの墓参りをし、明くる日は早朝からまだ傷跡が深く残っていた街を歩き、
そのあと、当時、仮設住宅で暮らしていた弟さんの案内で、日和山公園(ひよりやまこうえん)、女川(おながわ)、そして、釜谷(かまや)の順に案内してもらった。
甚大な被害が出た地域のひとつで、いとこの御主人の親戚(当時40代の大工のお父さんと幼い娘さん)が亡くなったが、ここには児童74人と教師10人が亡くなられた大川小学校があった。
津波がリアス式の湾からさらに狭くなる河口付近に流れ込む時、流れが一気に強く高くなり、その衝撃の激しさは『震災遺構』として保存されている校舎に残されていた。
外壁は概ねはがされ、厚さ10センチ以上もあるコンクリ壁には、えぐられたような大穴が開き、校庭に面した山の斜面には波が衝突して駆け上がった跡が高さ40メートル付近まであった。
校舎も、山肌も、強い力で刈りとられたような・・・水が時として、鋭利な刃物のように襲いかかる印象を強く受けた。
校庭には亡くなられた児童・先生の名が刻まれた慰霊碑が建てられている。
2015年6月中旬、私のフェイスブックより転載。女川訪問
石巻市から県道をまっすぐ東側、牡鹿半島を挟んで向こう側、入り江の漁港が女川(おながわ)。
震災では約600名が犠牲になった地区です。
いとこの弟さんが、ぜひ見てほしいと案内してくれました。
今春にオープンした女川駅。
被災前の旧駅舎から数百メートル内陸の高台の方に引っ越しして新設された3階建ての新駅舎。避難ビルでもあります。
女川(女川湾)や、その北、大川小学校があった追波湾の入り江は震源からの津波に直撃された関係で、高さ20メートル以上、最大30数メートルの津波に襲われました。
女川では・・・2枚目の写真・・・、右側の高台に医療センターがあるのですが、当時、ここの1階まで、波が届いたそうです。
参考に、写真に黄線を入れてみました。
新駅舎でも、1階は波に洗われるほどの高さになります。震災前の漁港周辺には、たくさんの住宅や漁港・港湾施設がありましたが、すべて跡形もなく消えてしまいました。
その高さと恐ろしさは、想像を絶します。
港から駅までなだらかなスロープになっていますがこれは埋め立てで「かさ上げ」したことによるものだそう。
駅舎の完成に伴い石巻線も再開しました。3枚目の写真。写真の線路後方、高いところの土地が造成されていますが、女川町の方々は、今後、あの台地に住まいすることになります。工事は始まったばかりの印象ですが、完成が急がれます。
駅舎の天井は美しいアーチ型。鉄筋と木を融合させた地震に強い「しなり構造」になっています。
再建中の女川町。港、駅や周辺には、観光や防災見学の人たちをもてなす商業施設も増えつつあります。