河内と大和の国境であった国分(国分、大阪府柏原市)。大和川を見下ろす南岸の丘陵地に #松岳山古墳(まつおかやまこふん、前方後円墳)。墳丘部で露出した #石棺 と南北に立てられ穴が彫られた謎の #立石 を見ることができます #天の磐船
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本文
大和と河内の国境。国分
奈良方面から
— 開物発事 (@Kai_Hatu) 2024年5月3日
高井田駅に入る #JR大和路線#大和川親水公園
駅の向こうの丘陵に
古墳時代の #高井田横穴古墳群、#柏原市立歴史資料館 pic.twitter.com/2nhrvR61oW
松岳山古墳(まつおかやまこふん)
(34.5698324, 135.6454481)/大阪府柏原市国分市場1丁目6−35/国分神社境内より後円部への登り口。JR大和路線・高井田駅より徒歩約20分
国分神社がある丘陵上には小さい円墳や方墳が10基ほどありました。その中でもっとも高いところにある、ただ一つの前方後円墳が松岳山古墳です。古墳は長さ130メートル、後円部の直径72メートル、高さ16メートル、前方部の幅32メートル、高さ6メートルの大きさがあります。
さらに周囲には板状の石を斜めに積んだ部分がみられ、これを加えると古墳の全長は約155メートルとなります。
後円部の頂上には、蓋と底に各1枚、側面に4枚の計6枚の石を組み合わせた大きな石棺があります。
蓋石と底石には固い花崗岩を、側面の石には軟かい凝灰岩を使っています。石棺の中をよくみると、頭や体の部分にあわせて底石を浅く彫り込んでいるのがわかります。
石棺のまわりには板状の石が多く落ちています。もともとはこれらの安山岩を積んで、石棺を収める竪穴式石室が造られていました。しかしいつの頃か盗掘の時に壊されたようです。
また石棺の南北に、穴のあいた大きな石が立っています。石室の一部のようですが、これにはどのような役割があったのでしょう。
石で造られた準構造船。天の磐船(アメノイワフネ)か!?
前回、奈良県広陵町・巣山古墳から出土した準構造船のカタチを覚えておいていただくよう紹介しましたが、
石棺の頭(北)と足元(南)の両方向に、角度を持たせて立てた立石が、船の前後の波よけの型板にそっくりですね。
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あくまでも個人的な直感に過ぎませんが、大和川を見下ろすロケーションを考えても、この石造物(石室)が「古代の船」をあらわしているように思えてなりません。
松岳山古墳の埋葬者は、大和川水路を掌握していた海人集団の長。。。
中でも、死して後も 天の磐船 から、国境水路を見守る 道祖神的な役割 を期待された(神格化された)人物であった可能性があります。
(私が知る限り、同様な役割が期待された歴史的人物といえば、野見宿禰公、坂上田村麻呂公、徳川家康公)
今のところ、それが誰なのか?見当も付きませんが、それは周辺を歩きながら考えてゆきたいと思います。
石の孔は、そこに縄を通し、船どうしを繋ぎ(群れで)外洋を航海したり、
「国分〜亀の瀬」間の大和川の難所を通過する際に、外部の人力で船を引っ張ったりして船をコントロールするためのもの、と考えることができます。
発掘調査により、石室からは勾玉、管玉、ガラス玉などの装身具や銅製の鏃などの副葬品が多く見つかりました。中でも総重量50キログラムに及ぶ鉄製の武器や農耕具類が注目されます。また古墳の周囲には円筒埴輪や巨大な楕円形の埴輪が立てられていたことがわかりました。石棺の形や出土品などから、松岳山古墳は古墳時代前期の後半ごろ、つまり今から1600年くらい前に造られたと考えられます。
時代的には西暦400年前後にあたり、ここ最近紹介してきた、津堂城山古墳(古市古墳群)、巣山古墳(馬見古墳群)とともに、いずれも同時代の古墳。
弥生時代の影響を離れ、巨大古墳時代に向けて激動した時代が、海人族のこん跡とともに、大和と河内の国境周辺に集まっているのはポイントかなと思っています。