目次
まとめ
江戸時代に「石舞台が推古、近くの都塚が用明」という古い #明日香伝承 を #本居宣長 が紹介(1772)していたそうです。私は #石舞台は用明 と考えましたが、となると #都塚は推古 の可能性!?。#用明 は #厩戸皇子 の父上 #推古 は叔母です #欽明系図 #神仏混沌 #飛鳥時代
本文
古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE
本居宣長「管笠日記」の記述
江戸時代の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)が、管笠日記(明和9年、1772)で
石舞台が推古、近くの都塚が用明
という明日香伝承を記述していると飛鳥歴史公園HPが紹介しています。
今や定説?になっている石舞台古墳・蘇我馬子説は、その約60年後、文政12年(1829)にはじめて提唱されたんですね(津川長道、卯花日記)
この管笠日記の話、前回記事(1)を書くまで知らなかったのですが、少し自信を持ちました。
私の説は「石舞台が推古用明」ですが、石舞台と都塚の距離の近さから考えて『イイ線行ってる』と思います。笑
石舞台との双墳説もある都塚古墳
石舞台古墳から多武峰(とうのみね)に向かう道を進み、右に折れて、棚田をのぼり始めたところに都塚古墳はあります。
都塚古墳について。明日香村の資料*1から転載します(抜粋)※詳しくはWikiをご覧ください。
昔から金鳥塚と呼ばれた。早くに盗掘にあい、昭和の初期には石の隙間に人が一人入れる穴が空いていて、腕白坊主が探検と称して石室内に入り込んで遊んでいた。玄室には家形石棺があって見学者が玄室内で火を使ったりしたため入口に扉が付けられた。平成26年に範囲確認調査が行われ、段状の墳丘(説明パネルの図の通り階段ピラミッドのよう)で、当時(7世紀前後)の日本では例がない様式と言われた。また石舞台より上部にあり、石舞台の埋葬者より位の高い人の墓ではないかとも言われている。
都塚古墳の埋葬者は?
石舞台と同じく、激しく盗掘に遭い副葬品も散逸し、埋葬者が誰だったのかを証明するのは、ほとんど不可能でしょう。
手がかりは、都塚古墳のある場所と、石舞台古墳との双墳説(埋葬者どうし強い関係性がある)しかありません。
豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ、推古女帝)
転載資料にあるように、石舞台より高い丘にあり、石舞台の埋葬者よりも高位の人が埋葬されたと考えると。。。
石舞台の埋葬者が用明大王だったなら、同時代で彼より高位の人物といえば、姉であり大后であった炊屋姫の他にはいません。
従ってひとまずの結論は、石舞台が用明、近くの都塚が推古 です。
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敏達大王が薨去し、印璽を預かる大后となった炊屋姫にとって、息子の竹田皇子が後継ぎには理想だったのでしょうが、
若く経験不足の息子には荷が重く、ワンポイントリリーフに実弟を起用したと推理されます。
しかし、弟・用明大王の即位から、炊屋姫には不測のできごとが次々に起き、それが後の 神仏混沌の飛鳥時代 を形づくってゆくことになります。
記紀・改葬の記述
やがて自ら推古女帝として君臨、薨去後に都塚古墳に埋葬された後、弟の用明大王らとともに、河内の磯長(しなが、太子町)に改葬されました。
石舞台・都塚とも墳丘がはがされ、石室が露出しているのは、直接的には改葬によるものだろうと考えています。
用明大王(日本書記)
用明二年(587)4月に没しその7月に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られ、推古元年(593)9月に「河内磯長陵に改め葬りまつる」
推古女帝(古事記)
「御陵は大野岡(おおののおか)の上に在りしを、後に科長(しなが)の大陵に遷(うつ)しき」
欽明系図
この時代の歴代天皇は、欽明大王の子どもたちですので、勝手に欽明系図と呼ばせてもらっています。
血族関係は混み入ってて、大変ややこしいですね。
よかったら、古墳時代(晩期)~飛鳥時代(前期)を推理してみてください。
石舞台古墳は用明天皇の墓だった!?(1)
*1:明日香村の大字に伝わるはなし・明日香村文化協会