ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【柿本人麻呂(2)】歌聖の絶妙テク 暗号が埋め込まれた歴史の記録★★【万葉集・雑考】

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柿本人麻呂公像(高津柿本神社島根県益田市高津町 AC

まとめ

柿本人麻呂。各皇族や宮の動静を深く知る立場にありながら、宮使いの舎人としてレッドラインを超えないわきまえと文学素養があり、ゆえに万葉集の編集者として適任でした。そんな歌聖の危ない橋について妄想考察

目次

本文

柿本人麻呂公が生き、万葉集が生まれた時代

歌聖・柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)は、出自も含めて謎めいた人物です。

最多の100首に迫る万葉歌を残し、おそらく、初期の万葉集の編纂にかかわっていたことは想像に難くありません。

当時の天皇(事実上、皇太后のサララ姫)をはじめ、各皇族や宮の動静を深く知る立場にあり、しかし一方で、宮使いの舎人(とねり、官人)として「レッドライン」を超えないわきまえと文学素養があり、ゆえに万葉集の編集者として適任だったと思います。

この時代は、特に天智(中大兄皇子)以降の激しい皇統争いでたくさんのタブー(言ってはいけない・触れてはならないこと)が生まれた時代です。

ついでに言うと、そういう時代に古事記日本書紀記紀)が成立したことを、後世の私たちは忘れてはなりません(天武が国史の編さんを指示。古事記元明期、日本書紀は元正期に完成。どちらも女帝の時代)

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天智・天武系図 大津皇子草壁皇子(緑:生年~没年)

万葉集大津皇子の事件、草壁皇子の殯(もがり)のあたり

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大津皇子、辞世の句(巻3-416)』『姉・大伯皇女、弟への挽歌(巻2-165,166)』は連続したイベント(686-687)ですが、万葉集では逆順、しかも巻2と巻3に、遠く引き離されています。

人麻呂公ともあろう人が、姉弟に相通じる哀しい心情が伝わらない、そんな ヘタな編集 をするでしょうか。

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そのあと、ワンクッションも置かず、大津皇子のライバルであった草壁皇子の殯(もがり、葬式、689年)の挽歌27首を延々と続けます(巻-番号が連番)

1)人麻呂公の草壁皇子を悼む長歌(巻2-167)・短歌(同-168,169)、計3首

2)人麻呂公の草壁皇子を悼む「勾の池の水鳥の歌(同-170)」1首

3)草壁皇子に仕えた舎人(とねり、官人)が、皇子を偲んで詠んだ23首(寄せ書き、同-171~193)

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当時の舎人たちの記録集の「懐風藻、かいふうそう」には、大津皇子は『文武に優れ、皇子にありながら謙虚で、人士を厚く遇し、皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた』と紹介されています(Wiki)。まさに大王の資質です。

一方、草壁皇子(日並皇子、ひなみしのみこ)は、政治手腕は大津皇子に及ばないものの(まるで月のように)控えめで穏やかで、おそらくその優しい性格ゆえ、母親(サララ姫)の激しいやり方が受け入れられなかったと推理します。

(私の妄想イメージとして、聖徳太子のお父上の用明大王に似たものを感じます。奇しくも、草壁は用命の死によって使われなくなった飛鳥川のほとりの嶋宮を住まいにします。母へのレジスタンスの意を込めていたのかも知れません)

さて、柿本人麻呂公。

もちろん、当時、嶋宮で仕えていた草壁皇子突然 なくしたことに対する無念の思いはある一方、大津皇子こそ大王にふさわしかったと考えていたのかも知れません。

草壁皇子は辞世の句を残していないことから「突然」と書きました。皇子の死に関して経緯は不明ですが、病死の可能性は低いと考えます。)

池と水鳥。応答する二つの万葉歌

大津皇子は、辞世の句「磐余の池(吉備池)と鴨の歌」を残しています(巻3-416)

ももづたふ 磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ

人麻呂公は草壁皇子への挽歌として「勾りの池(嶋宮の池)と水鳥の歌」(巻2-170)をうたいました。

島の宮 勾(まが)りの池の放ち鳥 人目に恋ひて 池に潜(かず)かず

二つの歌は「池と水鳥」で応答しています。つまり人麻呂公の歌は、草壁皇子への挽歌を装いながら、実は大津皇子への返歌になっているのではないでしょうか。

巧妙に「鳥」を「舎人」にたとえ、彼らが仕事を失うこと(放ち鳥)を嘆く風を装い、わざわざ「池と鳥」をモチーフにした意味を考えみてください。

※記事を書いた後に気がついたんですが、大津皇子の「雲隠りなむ」と人麻呂公の「池に潜かず(もぐらない)」は対語表現になっていますね

実に巧妙ですよね。

人麻呂公は万葉歌(挽歌)の教師役として、この歌をお手本に示し、他の舎人たちはそれを参考に「寄せ書き」のように挽歌23首を残しています。

舎人らは、人麻呂公の隠された真意に気づかなかったでしょう。

それよりも、自分たちの素養を披露し、次の新しい就職先から声がかかることに、懸命だったのかも知れません。

*****

さて、最初の方に書いた ヘタな編集 の話。

ここまで書いた通りなら、人麻呂公は 危ない橋 を渡っています。

大津皇子の事件は、当時の最高権力者・サララ姫には最大級のタブー(彼女が首謀者)でしょうし、人麻呂公の立場で、大津皇子を悼む真意を悟られると、失業どころか、命まで落とすことになりかねません。

そこで、万葉集では、大津皇子の辞世句を、草壁皇子への挽歌から遠く離し、両者が無関係であるように編集した。。。

まるで、仏像の背に十字架を描いて拝んだ、隠れキリシタンみたいですね。

古代妄想レベル:★★★=MAX ★★=MEDIUM ★=MIN or A LITTLE

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