まとめ
山口と名のつく神社は、山の口(麓)で #大山祇 #オオヤマツミ の神を祀ることが多いのですが、#畝火山口神社 は異例。#橿原 #畝傍山 という特別な所に鎮座したがゆえの事情で、遷座を繰り返した由緒があるようです
目次
本文
畝火山の謎
大和三山のひとつ畝傍山は、かつては火山だったようです(山頂付近に火山岩の地質構造が見られるとのこと)
万葉集などで「畝火山」「雲根火山」と詠われていますが、人類誕生のはるか以前、千四百万年前(新第三期)に活動を終えた火山のことを、はたして奈良時代の人が知っていたのでしょうか。
もし知っていたとしたら、どうして知っていたのか、なぜ「火」の名を付けたのか、、、謎です。
当時すでに「火山性の地質を観る」ことができる人々がいたということぐらいしか考えられません。
畝火山口神社、遷座の歴史
畝傍山の西側のふもとに陣坐している畝火山口神社。反対側の東側のふもとには橿原神宮(創建1890年、明治期)が鎮座しています。
御祭神:氣長足姫命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)、豊受比売命(とようけひめのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)
御由緒(記事末)を拝見しますと、橿原の畝傍山という特別な場所に鎮座していたがゆえに、各時代の事情によって遷座した歴史があるようです。
● 創建は不明。記録では朝廷の(材木供給の)森林を守る山神を祀る社として大山祇命(おおやまつみのみこと)を御祭神としていて、畝傍山の西側の麓にあった(今の鎮座地より北)
● 経緯は不明、組み合わせも謎ですが、現在の三神を御祭神として迎えるにあたって、もともとの大山祇命は境内社に祀られるようになった
● 戦国時代、越智氏が、南方2~3Kmの貝吹山に築城(詰城)の時、当社を見下ろすことを怖れて、畝傍山山頂に遷座
● 昭和15年の皇紀二千六百年祭(橿原神宮にて)の時、当時の政府(軍部)から神武天皇陵を山頂から見下ろすのはケシカランということで現在地に遷座
畝火山口神社、境内
境内社は、六社と祓戸神社。
六社は左から春日(かすが)、埴安彦命(はにやすひこのみこと)、大山祇命、高良(こうら)、八幡(はちまん)、厳島(いつくしま)
当日は、お盆を過ぎて盛夏の趣。午前10時ですでに頭上から照りつける日差しと、地面の照り返しで眩しい境内。
本殿の朱色が空の青、周囲の緑に映えて、輝くように美しかったです。
畝火山口神社、本殿と拝殿
社務所が閉まっていましたが、現在の御祭神の組み合わせの理由をお聞きしたいところです。
神功皇后と表筒男命は住吉さんですが、中筒男と底筒男がいなくて、代わりに? 伊勢外宮の豊受姫が祀られています。いずれも北部九州からやって来た神様たち。
もとの御祭神の大山祇命は出雲の神様ですから、これも「出雲後物部」のひとつのカタチかも知れません。
御由緒(写し)
飛鳥・奈良時代から朝廷の尊崇篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは大同元年(806)「新抄勅格符鈔」に神符一戸を寄せられたとあるのが最初である。貞観元年(859)正五位下を授かり延喜の制では明神大社として官幣及び祈雨の幣に預かったことが「三代実録」に、また、延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祇命(おおやまつみのみこと)を御祭神としていたことが伺える。文安三年(1446)「五郡神社誌」に畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。天正三年(1575)の畝傍山古図では山頂に社殿が描かれており、この間に三頂に遷座されたことが明らかで、口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際、真北に神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。「大和名所図会」にも『昔畝火山腹にあり今山頂に遷す祭る所、神功皇后にてまします畝火明神となづく』とあり、当神社の御祭神・神功皇后が朝鮮出兵の際、応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により、今に「安全の守神」として信仰されている。主神であった大山祇命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受姫命、表筒男命の三神を奉祀したのもこの頃かと思われる。神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれてきたが明治に入って旧郷社「畝火山口神社」と定められ、俗にお峯山と呼ばれてきた。現在の社殿は昭和十五年皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し、神威をけがすということで当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。