はじめに
大阪市内から生駒の大鳥に見えるあたり。山麓の東大阪市上四条町一帯には、楠木正成(大楠公)の息子、#楠木正行(まさつら #小楠公)のこん跡がいくつか残されています #太平記
目次
本文
イノシシのワナ
生駒の大鳥の頭あたりは東大阪市上四条町一帯で、本シリーズ初回で紹介した道しるべのところまで行き『奥の院』と書かれた方に進みます。
途中、脇道もあり、ひとつひとつ入ってアヤシゲなものはないか(笑)探し歩きます。
そのひとつ。おぉ~!ワナって始めて見た!と興味シンシンで周りをウロウロ。しかしそのうち、あることに気づきましす。
ココにコレがあるということは、、、汗、、、周りの草むらの気配にビクビクしながら、そそくさと元の道に戻りました。
廃神社 奥の基壇に楠木正行公碑
途中の道案内もなく、、、奥にお不動さんが立った山門らしきもの。周辺には案内板もなく、ここが奥の院かと思います(グーグルマップに載ってません)
奥に狛犬さんのいる社殿も見えます。
山門をくぐろうとすると、近くで掃除をしていたおじさん(こっちもおじさんですが)に『そっち行っても行きどまりで、何にもないで』と。
『あの神社は今は何にもあらへんで。昔は キソのオンタケさん を祀ってたんやけどな。』(私の質問はハショッてます)
明治期に旧四条村の春日神社(別記事で紹介)とともに、素戔嗚(スサノオ)神社が、近郷の河内の国一の宮・枚岡神社(ひらおかじんじゃ)に合祀された歴史があり、ここがそのスサノオ神社かも知れません。(→枚岡神社末社・天神地祇社(てんしんちぎしゃ))
(独り言。いやいやいやおじさん。境内もきれいで、祠で何か祀ってはりますやん。でもまぁ、ああ言うてはるから、根掘り葉掘りせんときましょう。笑)
(神様のいない?)本殿にご挨拶して、振り返ると、古いけれども立派な基壇、それに頂上に石碑が立っています。
山城のような屋敷跡か?
あるいは、神仏習合時代に見られる基壇構造か?いずれにしても、貴重なものかと思います。
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旧四条村の春日神社跡は、先日の記事の中で紹介しています。
楠木正行公 3つ目の『点』
おじゃまします。石碑には楠木正行(くすのきまさつら、小楠公しょうなんこう)公の名。
正行公。。。これで三つ目です。ちなみに楠木正成公(まさしげ、大楠公)の息子です。
他の二つとは(上でリンクした記事中)①近鉄瓢箪山駅構内に正行公の墓碑 ②竹藪の道の奥の廃神社(ここからすぐ近く)が菊水紋で楠木氏の家紋
太平記 に興味のある方には穴場かも。どなたか謎解き、いかがでしょうか。
Wikiによると。コピペ)正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した
北四条というのは、もしかして、、、ここ(東大阪市上四条町)ですか?
ここは河内国を東の高い所から南北にわたって見晴るかす戦略・戦術的に絶好の立地。
私が大阪市内から見える生駒の大鳥を目指してきたということは、逆にそういうことですよね。
となれば境内の基壇は 山城 だったのかも知れません。
とりあえず、自分の守備範囲のキソノオンタケさん(神社のこと)あたりのことを調べることにします。
アラハバキ解 第48章公開 赤い矢と出雲後物部(いずものちもののべ)
古墳時代前期から始まったヤマトでの出雲勢力と物部勢力の逆転を示唆する #赤い矢の伝説。#出雲の国譲り #倭国大乱 #出雲後物部