はじめに
穢れがあってはならない天皇の御所で起きた #清涼殿落雷事件(930年)#菅原道真公 没後約20年を経ての惨劇。これを機に平安京中心は東(現在の京都御所)に遷ってゆき、都の西は鬼や魔物が出没する際(きわ)なってゆきます #北野天神絵巻 #雷神 #鬼神
目次
本文
清涼殿落雷事件
御霊(怨霊)として怖れられていた菅原道真公を祀る北野天満宮が創建され、さらに平安京が東に遷る決定的な契機となった、たいへん有名な事件。
平安時代、延長8年6月26日(ほぼ現在歴930年7月24日)、平安京・内裏の清涼殿に、二発の雷が落ちました。
菅原道真公が大宰府で亡くなって(903年)から、約20年後のことです。
干天続きで、雨乞いの儀式の開催について醍醐天皇の清涼殿で太政官会議が開かれた6月26日(旧暦)、午後から北西の愛宕山から発生した黒雲が、都を覆い雷雨が降り始めます。
雷の第一撃は清涼殿の第一柱に、続いて隣の紫宸殿に落ちました。
第一撃で大納言・藤原清貫、右中弁内蔵頭・平希世の二名がほぼ即死、第二撃で公卿二名と警備二名が死亡という、本来、死穢を嫌う宮中、しかも天皇の御所にとってあってはならない事態となりました。
讒言を信じ道真公を太宰府に追いやった醍醐天皇は、命からがら清涼殿から避難しましたが、惨劇を目の当たりにしたショックは大きく、落雷事件の三ケ月後に崩御します。
ちなみに、第一撃で即死した藤原清貫は、讒言した藤原時平から、太宰府での道真公の監視を命じられた人でもありました。
火雷天気毒王(からいてんきどくおう)
北野天神縁起絵巻には、黒雲に乗り、太鼓を鳴らして雷を起こす、角をもつ鬼神の姿で描かれた火雷天気毒王(からいてんきどくおう)は、道真公の第三の眷属とされました。
醍醐天皇の崩御に関して、鬼神が天皇の肉体・臓器を爛れさせたと伝えられています。
火之御子社は、御由緒にあるように、北野天満宮創建以前から北野の地に祀られていた地主神ですが、落雷事件の後、御霊鎮魂の天神信仰の中で、道真公の眷属とされました。
シンプルな話ですが、角は「鬼」と「牛」に共通します。
清涼殿落雷事件を機に、牛は、復讐の鬼と化したのでしょうか。
牛とは、ひとり嫡流の菅原道真公に止まらず、古代の英雄・野見宿禰(のみのすくね、怪力の相撲の祖)を祖とする土師氏(はじし)そのものと考えた方がよいような気もしています。