ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

【北野天満宮(3)】菅原道真公とご眷属の牛の話(前半)

はじめに

ご存知の通り #菅原道真公 のご眷属は牛。#北野天満宮 境内 楼門前の赤い目の #臥牛 は少し怖いですね。 道真公は丑年生まれで丑年に亡くなった、太宰府への旅が牛車だったなどの説がありますが、実は菅公(北野天満宮)、牛と深いご縁があるようです

目次

本文

官公ご眷属の臥牛像

菅原道真公を御祭神とする天満宮では が眷属で、北野天満宮でも臥牛像(がぎゅうぞう、伏した牛の像、撫で牛)があちこちにあります。

赤い目が少し怖い臥牛。本殿に向かう楼門のそば。本殿にカーブする参道に向いています・・・赤い目は「睨み」を意味しているのでしょうか🧐

ヒントは「御霊(怨霊)は真っ直ぐにしか進めない」という考え方。赤い目の理由は他にあるのかも知れませんが、参道のカーブに視線が向いている位置関係から考えて、私はそのように妄想(考察)しています。

なお、北野天満宮は菅公の御霊を鎮める聖地であり、毎年秋のずいき祭りでは、このあたりに約2メートルの巨大なサルタヒコ像が立てられます。

楼門近くの臥牛像(赤い目がちょっと怖い)

北野天満宮 左の参道から右にカーブして本殿に向かいます。右に赤い目の臥牛

北野天満宮 境内図

北野天満宮境内で見かけた臥牛像

牛が眷属となった理由で、もっともいわれているのが、このシリーズ(1)の回で紹介した太宰府への陸路で牛車に載って・・・というところでしょうか。

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道真公のお供をした二人の家臣、牛飼いの島田忠興(老松大明神-老松社)牛の世話役の十川能福(そごうののうふく、福部大明神-福部社)をあらわしているというのはあり得る話ですね。

北野天満宮 摂社 老松社と福部社

牛と縁が深い道真公

実はそれ以外にも道真公は何かと牛とご縁が深いようです。

道真公の没後約40年を経て、道真公がその乳母とも霊感の強い巫女とも云われる多治比文子(たじひのあやこ)の夢枕に現れ『我が魂を(平安京大内裏の北東の)右近馬場に祭れ』とのお告げをしたのが、北野天満宮の創建譚。

北野天満宮 末社 文子天満宮

山田邦和氏の「京都都市史の研究」より。初期平安京の地図ですが、天皇の居る大内裏の北東に右近馬場が見えます。

北側に先日紹介した桜の社、平野神社も見えます。

山田邦和「京都都市史の研究」より。指差しが右近馬場あたり。隣接して乳牛院。北東に平野神社

右近馬場の隣に⛩のマークが見えますが、おそらくここが北野天満宮が創建される前から鎮座していた地主社でしょう。

北野天満宮 末社 地主神社

興味深いのは、馬場に隣接して 乳牛院

乳牛院とはいわゆる牛の飼育場。皇族や貴族のために医療を施す典薬寮(てんやくりょう)の管轄下にある施設で、当時貴重な牛乳は、蘇や醍醐(現代のチーズのようなもの)として、和漢や健康食品として利用されていました。

北野天満宮はそのあたりに建立されました。

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官公のご先祖は土師氏(はじし)

ご存知の通り、道真公のお父上・是善(これよし)は土師氏の子孫、お母上・伴氏(ともうじ、ばんし)は大伴氏の子孫。

土師氏は野見宿禰(のみのすくね)を祖とする古代のゼネコン・土木建築の一族、大伴氏は安曇氏海人系統としてヤマト朝廷を守護した一族。

奈良時代以前の古代において、両族は協力してヤマト朝廷に貢献したものと考えています。

北野天満宮 道真公の御母上を祀る末社 伴氏社

ここから牛の話に繋がってゆきますが、少し長くなりますので、後半に続きます。

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