ものづくりとことだまの国

縄文・弥生・古墳時代の謎。古神社、遺跡、古地名を辿り忘れられた記憶、隠された暗号を発掘する。脱線も多くご容赦ください

森本六爾・夫妻顕彰之碑 三輪山を眺める故郷に

森本六爾(ろくじ)は、奈良県磯城郡織田村大泉の生まれ。

現在の桜井市大泉の交差点から三輪山の方、東へ約二百メートル、県道に面した住宅地の一角に「森本六爾夫妻顕彰之碑」が建てられている。

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六爾は、子どもの頃から地元周辺の遺跡に興味を持ち、近くの唐古池(からこいけ)に通っては池底の土器片集めに没頭するなど、考古学少年であった。

マチュアのまま成人。その情熱が覚めぬまま、東京で恩師の伝手で考古学に関わっていた。

生き方が下手な天才肌と献身的な夫人

しかし天才肌にありがちな、対人関係に無頓着な人で、同僚や先輩からは歯に衣を着せぬ言動を疎んじられるようになる。

そんな中、考古学の同好会仲間であったミツギと出会い夫婦になる。

師範学校卒の教職だったミツギは、当時としては高給取り、かつ献身的な女性で、在野の考古学者として日々研究に打ち込む夫への公私にわたる協力を惜しまなかった。

夫が希望したパリ留学では、渡航・生活費用を懸命に工面した。

約二年の留学は失敗の類で、六爾は大した成果を挙げられず、その上、結核の身となり傷心のまま帰国。

帰国後も夫人は六爾を支え、私設の勉強会の刊行物の費用を捻出し、執筆も手伝った。そんな厳しい仕事と子育て、看病の生活の中で、自身も結核に感染する。

原始農業の時代(後の弥生時代)の発見と提唱

森本六爾の最大の功績は、各地で発見されていた土器片の籾殻(もみがら)の圧こん(圧迫した跡)を、唐古池で採集していた自身の資料の中でも見つけ、稲作農耕を行う原始農業のムラを提唱したこと。これが後の「弥生時代」の発見に繋がった。

森本六爾が予見した通り、唐古池の本格調査で多数の古代の木製農具が発掘され、稲作の弥生時代を証明する決定打となった。

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唐古・鍵遺跡ミュージアム

ただその本格調査が、遠く鎌倉で、夫妻が相次いで亡くなった直後に開始されたことは、運命の皮肉としか言いようがない。

森本六爾は今でも「考古学の鬼」として考古学者の間では知られた存在だそうだ。

松本清張の短編小説「断碑」の木村卓治夫婦は、六爾夫妻をモデルにしている。

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三輪山全景

いつも車か電車で、麓の大神(おおみわ)神社に直接お参りしていたため、近すぎて視界が遮られ、御神体三輪山をしっかり見たことがなかった。

今回、夫妻の顕彰碑のある場所から、適度な近さで三輪山を全貌できることを始めて知った。

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顕彰碑・文字起こし

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日本考古学の鬼才、森本六爾君は明治三十六年三月二日この地に生まる

独学にて考古学の研究に没頭し若年にして前人未到の「日本原始農業」を著し天下にその説を問う

しかるに研究その緒につきしのみにて昭和十一年一月二十二日逝く、享年三十二才

ミツギ夫人は福岡県の生れ、昭和三年結婚内助のほまれ極めて高かりしも夫君に先立ち同十年十一月十一日永眠、享年三十二才

共に若くして考古学に殉ず、まことに惜しみてもなほ余りあり

ゆかりの地、唐古池の発掘調査は昭和十一年十二月に始まり君の予見適中したるも相共にその成果を見ることなし

嗚呼(ああ)二粒の 籾 もし 成長し、結実しあらば 今日 考古学会の盛況を 思ひ 君の早世を悼むと共に 偉大なる功績を顕彰せむと この碑を建立す

奈良県立畝傍中学校同窓、奈良教育大学名誉教授、堀井甚一郎 撰書 桜井市民大学 文学散歩の会 建立 昭和五十六年三月吉日

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