奈良盆地
西は生駒山系と金剛・葛城山系、東は「山の辺の道」が通る山系に挟まれた、断層帯の低地で、東西約15キロメートル、南北約30キロメートルの面積だ。北は丘陵を挟んで京都盆地と繋がっている。
古代、盆地中央は「大和湖」を中心にした広大な湿地帯で、人々は周囲の丘陵地、三輪、葛城、御所(ごせ)から住み始めた。
低地にむかう斜面を利用して、湿地帯を水田地帯に変えていった。(唐古池を始め周辺の池は古代の湿地帯の名残)
唐古・鍵考古学ミュージアム 弥生時代の水田復元ジオラマ。薄いグリーン部分が水田 画面上が北。
ゆるやかな斜面を利用したムラと水田造り
唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている唐古池周辺の弥生時代の復元ジオラマをみると、東(右)から西(左)にかけて、ゆるやかな低地になってゆく斜面に小さな流れを引き込み、その間にムラと水田が造られている。
ムラの周りには環濠(かんごう、まるい堀)が幾重にも掘られている。ジオラマでは八本の環濠が再現されているが、実際の発掘調査では最低でも四本の環濠が確認されているそうだ。
一時、福岡空港そば、最古級の水田跡が残る板付(いたつけ)遺跡を調べていたことがあり、おそらく近くの川から水路を引き斜面を利用して大規模な稲作を行っていたのだろうと想像していたが、そのままの姿をジオラマで確認することができた。(板付遺跡には行けてない)
板付にも環濠の跡があり、時期的に考えて、北部九州で始まった稲作文化が「ムラ」の文化様式とともに、ヤマトに引き継がれたことは間違いないだろう。
ただ北部九州の環濠は外敵に対する防衛の意味合いが強いのに対し、唐古・鍵のものは、ムラの中心部に水路を引き、また水を抜く上下水道のような役割だったのではないかと模型を見て思った。洪水対策にもなる。
環濠様式は形として残ったものの意味が変わったということ。
とりあえず、そういう細かい点はヌキにして、
古代、稲作の「ムラ」が発展することで「クニ」が発展してゆく・・・
それが弥生時代であるが、稲作の「ムラ」は北部九州で始まり、それが西に伝播する過程で、ヤマトに「クニ」が生まれた。
ヤマトという「クニ」の形は、三輪・御所・橿原・それに飛鳥も含めて、大和盆地中央の大規模な水田地帯が原動力(エンジン)だったことが空から見える。
唐古・鍵考古学ミュージアム(無料)
唐古・鍵遺跡出土の土器の線刻(絵や記号)唐古池の楼閣は土器の線刻を元に復元された。




唐古・鍵考古学ミュージアムでは、唐古・鍵遺跡で出土した土器や農具を中心に展示。