訂正とお詫び
このシリーズ初回の記事について、指摘があり、確認したところ御神紋は光輝く「トビ(鵄)」でした。最初に「八咫烏」と書いていましたが、訂正しました。
神武東征神話の要約(日本書紀、古事記)
カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が東征の際、天から派遣された八咫烏(ヤタカラス)の案内で熊野・吉野の山中を行軍し、戦いで窮地におちいった時、金色に輝くトビ(金鵄、きんし)が現れ、イワレビコ軍を助けた。
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調べてみると「鵄」には「シ」「トビ」「フクロウ」の読みがある。
いずれにしても、智恵のある賢い鳥のイメージ。
フクロウは意外だったが、宮沢賢治の二十六夜では「徳の高いふくろう」というほどの意味で、梟鵄(きゅうし)という言葉が使われている。
八咫烏(やたからす)の御神像
江戸末期、境内の剣池から出土したものらしく、
以来、等彌神社(とみじんじゃ)では御神宝として本殿でお祀りしているとのこと。
社務所でお願いして、八咫烏(やたからす)の御神像のレプリカを並べて撮影させていただいた。
昔は御守として頒布していたそうだが、現在はストラップのみの頒布。
撮影させていただいたレプリカは等彌神社に残っているもの。
出土の状況から、考古学的な検証は不可能で、神像の製作年代も不明。
しかし私はその真贋を述べる立場でもないし、そのつもりもない。なぜなら、
「ヤマトの出雲族」に関わりのあるらしいという知識だけで等彌神社を訪れ、
鳥見の霊畤に上り、三輪山を北に遥拝する位置関係を確認することで、古代妄想の手掛かりにしようと考えていたけれど、
下鴨神社に続いて、またまた、それも「二本足の人型のやたからす」に出逢ったからだ。
下鴨神社以来の考察を通して、ヤタカラスが賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)であること、三本足のカラスのイメージは後世(藤原京の時代)に大陸の影響で、太陽信仰とともに創られたものであることを学んだ。
後世に創られるから神話になる
しかし、神話は重要な史実をベースに創られていることが多く、それを見逃さないためにも、まずは考え、現地に足を運び、少しの手掛かりを見つけて、また考える他はない。
そんな私には、等彌神社の輝くトビ(金鵄)の御神紋と、八咫烏の御神像(御神宝)はたいへん貴重な手掛かりだ。
実際、カラスの姿でも三本足でもない。下鴨神社でいだき始め、出来上がりつつあったイメージ。
たとえ後世の作であったとしても、それは、おそらく「隠された出雲族のヤタカラス」の姿を後の世に伝えるために、誰かが残した手掛かりだと考えている。
前回
北極星が結ぶ二つの神社にヤタカラスの出発点と到達点。これは単なる偶然なのだろうか?
下鴨神社では「やたからす」と濁らず発音し、ヤタカラスは「太陽」の意と解説している。太陽が「ただ射すところ」→「たださす」→下鴨神社の糺の森(ただすのもり)のことだ。
(四回シリーズ)
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