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佐渡には約180ケ所の縄文遺跡
新穂歴史民俗資料館がある新穂周辺だけでも、上新穂、棚田、出口、源太平、湖鏡庵、矢田ケ瀬、垣の内などの遺跡が見つかっている。
資料館では、新穂の南・山あいの大野地区の矢田ケ瀬、垣の内から出土した縄文土器を中心に展示されていた。
火焔型土器に代表される「表現性(装飾性)」の高い装飾土器は縄文中期(約5000年前)の様式で、
佐渡の土器は、それより時代が下った縄文後期(約4000年前)のもので、土器づくりのポイントが「実用性」に移っていることが見て取れる。
ただ、例えば、浅鉢の4つの突起は、縄文中期の様式を受け継いでいて、この時代の佐渡には、新潟~福島方面(本州中部)から移動してきた人々が住み始めたのだろう。
古国仲湖(縄文時代)
この頃は、縄文大海進(5000年前がピーク)後の海退が始まり、大佐渡・小佐渡の間に「古国仲湖」や潟ができ始め、一部、陸路(陸橋)はあるものの、海人の小型で操作性のよい「丸木舟」には、総じて外洋よりも安全な「内海航路」だったはずだ。
ただ平野の拡大とともに、弥生時代に向けて早いペースで、航路としての価値はなくなり、やがて、離島化した。
前回(弥生の高度な管玉づくりの技術)
古代のタイムカプセルの意味
勾玉や管玉づくりは縄文時代から続いたもので、弥生~古墳時代の「高度な地場産業」的なカタチは、縄文時代からの長い技術の蓄積、それらが伝承された結果と考えるのが自然だろう。
縄文時代の勾玉や管玉の、列島全域(北海道~南西諸島)に及ぶ拡散分布は、糸魚川周辺(勾玉)とともに、佐渡が、海人の交易路であったことの証拠となる。
そして、それ以降の急速な「離島化」が、佐渡の古代技術を島内に閉じ込め、専門・高度化し、弥生時代以降、特に均質で美しい佐渡産の管玉の需要を集めたのだと考える。
あと一回、続きます。
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佐渡市 新穂歴史民俗資料館
0259-22-3117
8時30分〜17時(入館は16時30分まで) 毎週月曜日休館、12月1日~2月末は冬期休館