「佐渡は古代のタイムカプセル」というテーマで書いてきたが、今回が一応、最終回。
縄文からの玉作(玉造)の伝統を繋ぎ、高度化し、そのオンリーワン(特に管玉製作技術)が、弥生・古墳時代に全国の需要を集めた(地場産業化)というシナリオで古代の佐渡を眺めている。
実は勾玉・管玉づくりは、古墳時代の終焉とともに一瞬で廃れる。間違いなく、前方後円墳の終焉(薄葬化)とリンクしている。
今でこそ国石のヒスイ(2016年に選定)、長い時代(1000年以上)、漬物石ぐらいにしかならなかった時代があるのだ。
何度か書いてきたが、それは物部氏の滅亡(丁未の乱、587)と密接に関連していると考えている。しかしそのことを考察する回ではないので、そのあたりはまたいずれ。
匠・名工のムラ
勾玉・管玉づくりが廃れてから、金山(きんざん)の時代が始まるまで、佐渡は文化的にも日本史的にも「離島」化した。
しかし、その隠れた時代、佐渡の人々は稲作のムラで脈々と、ものづくりとその精神を継承した。
「番匠(建築工)、彫師、指物師、塗師、竹細工、鍛冶、紺屋、紙漉など各分野にわたり幾多の名工と云われる人がいた」
「ものづくり」の分業スタイルと「名工」と云われるほどの高い技術
このシリーズ2回目で紹介した弥生時代の管玉(くだたま)づくりの集落(玉作遺跡)の姿、そのまま。
弥生の佐渡の名工が造った玉が、広く求められ、全国に流通した古代の歴史。
その歴史が新穂で繰り返されていた。
稲作ひとつとっても、1年を通して、それを支える数々の実用的な道具。
桶づくりでも米づくりでも、優れた道具を作る「匠」がムラに居て、ムラ内で完結していること。
今までこういった展示を見てきたが、ものづくりの精神文化が「縄文・弥生の古代から繋がっている」ことを意識させられたのはこの時が初めて。
日本全国津々浦々、故郷の村々に古くから伝わる智恵の詰まった道具と、それが支える生活。
あらためて「ものづくり」の国の根っこの深さというか、太さを感じさせられた。
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佐渡市 新穂歴史民俗資料館
0259-22-3117
8時30分〜17時(入館は16時30分まで) 毎週月曜日休館、12月1日~2月末は冬期休館